特集|大学ジャーナル Vol.167

プロローグ スタンフォードの影――完璧主義という病理
スタンフォード大学のキャンパスは、世界で最も優秀とされる若者が集う場所の一つである。しかし、その輝かしい光の裏で、多くの学生が深刻な精神的危機に直面している。この現象を、アヒル症候群と呼ぶ。水面に浮かぶアヒルを想像してほしい。水面上では、周囲の景色に溶け込み、涼しい顔をして優雅に泳いでいる。しかし水面下では、沈まないように必死で足を動かし続けているのである。
学生たちも同様だ。彼らは失敗してはならない、常に正しい選択をしなければならないという強迫観念に縛られている。周囲に対しては、自信に満ちた完璧な自分を取り繕う。だが、その内面は、不安と恐怖で張り裂けそうになっているのだ。
この病理は、一部のエリート学生だけのものではない。現代社会に生きる多くの若者が、同様の重圧に晒されている。他者が定義した正解や評価基準に依存し、与えられた解答をなぞることに終始する。完璧を装うことに汲々とするあまり、自律的な問いが消失している。不完全さの中に宿る、人間としての独自性を見失っているのである。
箴言1 正解主義からの脱却を――答を外部に求めない

人生において、あらかじめ用意された唯一の正解など存在しない。しかし、既存の教育システムは依然として、既成の正解をいかに速く、正確に導き出すかを競わせている。正解を探し求める態度は、自ら問いを立てる力、すなわち自律的な思考の放棄につながる。
以前、私の授業を受けた日本の学生が「私たちは何のために生きているのでしょうか」と尋ねてきた。私が「実は僕も知らないよ」と答えると、彼女はひどくがっかりした。「先生でも知らないなんて」という落胆である。
しかし、彼女は自ら考え、こう気づいた。「先生が言いたいのは、人生は他の誰かに決めてもらうものではなく、自分でしか決められないものだということだ」と。正解を他者に求めるのを止めた彼女は、驚くほど心が軽くなったと語ってくれた。
真の学びとは、単に知識を詰め込むことではない。既成の正解主義から脱却し、不確実な世界で自分なりに意味を紡ぎ出すことである。そのためにはまず、自分自身が正解を持っていないという事実を謙虚に認める必要がある。
そのために最も大切なこと――謙虚さ

謙虚さとは、ただ人間であることを認めることだ。私たちは驚くべき存在であり、素晴らしい成果を生み出し、他者を深く思いやることができる。その一方で、私たちの知性には限界があり、ときには恐ろしい行為をしてしまう可能性がある。謙虚さとは、その双方を認めることだ。自分たちの知性を尊重しながら、同時に勇気をもって自分たちの無知を認める。それは、自分を卑下することではない。そうすることで初めて、私たちは学びに対して開かれていく。
謙虚さの共有
私がスタンフォードの教室で実践してきたのは、教員としての権威を手放すことだ。教員は唯一の正解を知っている完璧な存在として振る舞ってはならない。指揮者のレナード・バーンスタインは「教えることと学ぶことは一体である」と語った。私にとっても、教えることと学ぶことは常に同時に起こる。私は、自分が知っていることを教える。それ以上でも、それ以下でもない。私は正解を持つ教授としてではなく、一人の不完全な人間として学生の前に立つ。教員自身が自分も正解を持たないと謙虚に認めることで、教室から不必要なヒエラルキーが消える。同時に、学生たちの中から間違えたら恥ずかしいという強烈な恐れが消え去るのである。この謙虚さの共有こそが、他者の顔色をうかがう正解主義から脱却するための第一歩となる。
箴言2 ヴァルネラビリティ(vulnerability)――弱さをさらけ出す勇気

人間は知性だけで生きているのではない。そこで私は、互いに心の通い合うハートフルネスという概念を提唱している。これは、マインドフルネス、個による精神の統一を超え、他者への深い慈愛と、自らの行動に対する責任を統合した生き方と言ってもいい。
核心にあるのがヴァルネラビリティ。《傷つきやすさ》などと日本語では訳されるが、私はそれを弱さをさらけ出すことと言っている。弱さを見せることを敗北だと勘違いしてはならない。それは決して敗北ではない。自らの不完全さや傷を謙虚に認め、さらけ出す。それこそが真の強さの証なのである。

私の授業では、茶道の基本精神を取り入れている。伝統的な茶室の入り口は狭くて低い。そこに身をかがめて入ることは、自らの社会的地位、立場、そして自分を守るための鎧を脱ぎ捨て、一人の人間として自分をさらけ出すことを意味している。完璧であろうとする傲慢な鎧を脱ぎ捨て、ありのままの自分を受け入れたとき、私たちは互いに弱さを分かち合いながら、他者と本当に深く繋がることができる。
金継ぎの哲学――傷跡こそが美しさである
日本の伝統的な修復技法である金継ぎを想起してほしい。割れた器を漆と金粉で繋ぎ合わせ、その傷跡を隠すことなく、新たな美として、その器の歴史として昇華させる手法である。これは人間にも当てはめることができる。完璧な、傷一つない人間など存在しないという意味では、人間も割れた器だからだ。そしてわれわれが負った傷、欠点、挫折の経験こそが、その人の独自性を形作るのである。
金継ぎの傷に埋め込まれているのは、痛みや苦しみだけではない。そこには、それを乗り越えようとした勇気、未来への希望、そして傷ついた時に他者から受けた親切も含まれている。
自分の不完全さを認め、それを受け入れることは、自分自身を深く愛すること、すなわちセルフコンパッション(Self-Compassion)の第一歩ともなる。欠けている部分があるからこそ、そこに光が差し込む。傷跡こそが、その人を唯一無二の存在たらしめる誇り高き象徴なのである。
箴言3 全体性を回復しよう――半月のメタファー
人間は、一つの全体性として人生を始める。しかし、成長の過程で社会の偏見に晒されステレオタイプ化され、自己は次第に断片化していく。ある部分は闇に埋没し、自分自身の一部から切り離されてしまう。私は著書で、人種の異なる先祖を持つ人々のストーリーを書いたことがある(※)。その本の表紙には半月があしらわれている。社会は彼らをハーフと見るかもしれないからと。しかし、彼らは本来、完全な存在である。
われわれの内面には隠れた全体性が存在する。真の学びとは、社会的な役割や期待によって切り離された自分の一部を思い出し、再び受け入れ、統合するプロセスである。自らの内なる暗がりの部分やあいまいな影を排除せず、それらを直視することで、人は初めて本来の全体性へと還ることができる。暗がりを受け入れることで、私たちは初めて、本当の意味での光を知るようになるのだ。
※集英社新書「アメラジアンの子供たち―知られざるマイノリティ問題」
書くことによる癒やし
全体性を取り戻すための具体的な実践として、私は書くことを重視している。特に自分自身について、心の暗がりにまで足を踏み入れて書くことは心の癒やしにつながることが、近年の研究によって実証されている。しかも自らの内面に言葉を与え、外在化することは、精神的な安定だけでなく、免疫機能を向上させ、痛みを軽減させるなど、身体的な健康の増進にもつながるという科学的なエビデンスもある。
自分の物語を綴ることは、単に記録することではない。分裂した自己を再統合し、人生の意味を再構築するための、極めて実践的な自己治癒の行為なのである。自らの内なる声に耳を傾け、それを言葉にすることは、自分自身に対する責任を引き受けることでもある。書くことを通じて、私たちは自身の内なる真実と対話し、新しい自己へと変容していく力を獲得するのである。

箴言4 ステレオタイプを越える共感と涙 Compassion

社会は常に、特定の属性で人を分類しようとする。学生、教員、あるいは人種や性別といった枠組である。しかし、これらは社会が作り上げたステレオタイプに過ぎない。貼られたレッテルは、個人の複雑な背景を単純化し、本質を見えなくさせる。他者を理解する上で最も重要なのは、相手を文化集団の代表としてではなく、固有の人間として、謙虚に接することだ。教室の中では、一人の人間としての切実な私的体験に耳を傾けてほしい。
人が自らの弱さや痛みを語るとき、聞き手は無意識に持っていた偏見を脇に置くことができる。他者の悲しみに触れたとき、安易な解決策を提示する必要はない。ただ、共にその場に留まることだ。
私の授業では、他者の悲しみに対して「あなたの涙は私の涙です」という態度で接することを大切にしている。共に泣き、痛みを分かち合う。その感情の共鳴が、2人を同時に悲しみから回復させるのである。憐れみによる同情ではなく、水平な関係で共に痛みを抱えること。このつながりがあれば、不完全な自分をさらけ出すための安全な居場所が生まれるのである。
箴言5 新しい時代のリーダーシップを――求められる3つの姿勢

正解がないと言われる現在、一部の人間が明確な答を掲げて他者を引っ張っていく従来のリーダーシップは機能しない。これからは、誰もが自ら考え、他者と共鳴しながら行動を起こすリーダーシップが求められる。その基盤となるのは、徹底した謙虚さと、対人関係における3つのシンプルな姿勢である。
第一に、I see you. 相手の存在を認め、一人の人間として無条件に尊敬すること。
第二に、I am here. 相手から教えを請い、学ぶために、謙虚にその場に留まり続けること。私はここにいて、あなたの声を聞き、感じ、あなたから学んでいると。
第三に、I like you as you are. これは最も難しいことだが、不完全さを含め、相手のありのままの存在を肯定すること。
新しい時代のリーダーとは、すべてを知る万能の人間ではない。自らの無知を認め、他者に対して心を開き、弱さをさらけ出すことのできる人間である。教えながら学ぶという謙虚な姿勢を持つとき、そこに真の相乗互作用が生まれる。やはり謙虚さこそが、多様な人々を結びつけ、共通の目的へと向かわせる最大の力となるのだ。
対等な対話――アサーティブな姿勢で(assertive communication)
対人関係において、私はアサーティブという概念を重視している。多くの対話は、2つの極端な状態に陥りがちである。自分の意見を押し殺し、相手に合わせすぎるパッシブ、反対に、相手を攻撃し、打ち負かそうとするアグレッシブな状態である。しかし、私たちが目指すべきは、その真ん中にあるアサーティブな状態だ。これは、他者の意見を尊重しながら、自らの考えや感情も明確に表現するコミュニケーションのあり方である。
すなわち、I win and you win の関係性だ。自らの弱さを認め、謙虚に他者と向き合い、その上で、誠実に自分の言葉を伝える。こうしたアサーティブな姿勢こそが、個人の弱さを共有し合い、高いレジリエンスを備えたコミュニティを形成するのには欠かせないものだ。互いの境界線を尊重しながらも、心と心でつながる。この対等な対話が、組織や社会に創造的な変革をもたらすのである。
箴言6 失敗をどう活かすか――Resilience 七転び八起きの精神

教育現場では失敗から学ぶことの重要性が叫ばれている。私のワークショップの終わりに、多くの学生が「失敗が多い自分でも、ありのままでいいのだと初めて感じた」と語ってくれる。映画『スター・ウォーズ』の中で、マスター・ヨーダは弟子のルーク・スカイウォーカーにこう語りかける。「これまで学んできたことを手渡すのだ。強さ、熟達……。それに弱さや愚かさ、失敗も。何より失敗した経験、それこそが偉大なる教師なのだ」と。
失敗は恥ずべきことではない。それは隠すものではなく、共有し、次世代へ手渡すべき貴重な財産である。
私は日本の七転び八起きの精神、だるまの教えを大切にしている。何度転んでも立ち上がることのできるレジリエンス(resilience:回復力、復元力)は、外部からの圧力ではなく、自分や他者のためにベストを尽くそうという内発的な動機から生まれる。
重要なのは、本当の失敗とは転ぶことではない、しゃがみ続けることだ。失敗という事実を謙虚に受け入れ、傷ついた自分をケアする。そのプロセスを経てこそ、人はしゃがみ続けることをやめ、再び立ち上がることができるのである。
箴言7 マスタリーとミステリーの調和――一期一会でミステリーを受容(Acceptance)

人生への向き合い方には、2つが存在する。一つはマスタリー(熟達・支配)である。これは知識を探究し、技術を磨き、自らの力で人生をコントロールしようとする意志による。課題を解決し、自分自身の力で人生に対する責任を引き受ける。もう一つはミステリー(神秘)、つまり自らの知性では決してコントロールできない運命や、不条理な喪失を受け入れようというもの。未知なるものに対して畏敬の念を抱くことと言い換えてもよい。
現代の教育はマスタリーに過剰に偏重している。すべてを論理的に説明し、予測し、管理することを良しとする。しかし人生の本質は、計算できない不確実な領域にこそ宿る。茶道における一期一会の精神は、このミステリーの受容を象徴している。二度と繰り返されないこの瞬間を、その不可解さも含めて全霊で受け入れる。
マスタリーによって自律的な個を確立しつつ、自らの知性を超えたミステリーに対して謙虚に頭を下げる。このようにバランスをとることこそが、豊かな人生を形作る。支配しようとする手を緩め、神秘に身を委ねる。その調和の中に、真の平安があるのだ。
仕方がない――被害者意識からの解放と、今が最高という意識を
コントロールできないミステリーに向き合うとき、日本特有の「仕方がない」という精神は、レジリエンスの一形態になる。人生は避けられない苦しみや喪失に溢れており、常に公平や善良が支配しているわけではない。どうにもならない理不尽な現実を前にしたとき、それに抗い続けると人は被害者になってしまう。しかし、「仕方がない」と謙虚に受け入れることで、人は被害者意識の呪縛から解放されるのである。
変えようのない過去や運命を受け入れて初めて、変えることができるものを変えようとする勇気が生まれ、再び歩き続ける力が湧くのだ。そして、歩き続けるプロセスにおいて不可欠なのが、今が最高という意識である。私たちはつい、「もしこうだったら」「いつか理想の未来が来れば」と、手にしていないものを求めてしまう。しかし、いつかは良くなると考えて待つのは避けるべきだ。いつかが来ない可能性もあるからだ。理想的な未来の幻想に逃げ込むのではなく、今、与えられているすべてに感謝し、この瞬間を生き切ること。それこそが、ハートフルネスの神髄である。
箴言8 究極の問いと、人生への責任
死は、究極のミステリーだ。私はときどき授業の冒頭でこう語りかける。「私は死につつある。そして生きてもいる」と。学生たちは、私たちが自然の一部であり、「いのち」という贈り物を受け取っている存在であるという圧倒的な現実に目を覚ます。生きていることへの感謝の感覚は、よく生きるためには欠かせない。これは、日常の中にある小さな恵みにも気づかせてくれるし、本当に大切なものを見せてくれる。
死について思いを巡らせることは、生を深く自覚することであり、自分自身に問いかけることである。「私はどう生きたいのか?」、この問いに私たちは、日々どのように応えていくのか。それこそが、私たちに与えられた課題なのだ。
人生の責任を引き受けるのは、他の誰でもない、自分自身である。誰かの期待に応えるために、水面下で必死に足を動かし続ける必要はない。完璧でない自分を恥じる必要もない。
もちろん答のない問いを抱えながら、不確実な世界を歩むのは容易ではないかもしれない。自分の無力さに打ちひしがれる日もあるだろう。しかし、それでも構わない。傷つき、迷いながらも、ありのままの自分を受け入れ、他者と深くつながり合うこと。自らの内なる光と影を統合し、この一期一会の人生を、心を全開にして生き抜く。この静かなる覚悟こそが、これからの時代を自律的に生きるための、確かな希望を与えてくれるのである。
エピローグ 未来を生きる皆さんへ

ハートフルネスとは、単に自分の内面を静めるための精神の統一法ではない。それは、不完全な自分を受け入れ、他者への慈愛を持ち、他者とつながりながら人生の責任を引き受けていく生き方を促すものである。正解のない世界を歩むことは、時に強い不安を伴うだろう。しかし、人は最後の一呼吸に至るまで、自分を変えていく力を持ち続けることができる。
完璧を目指して自分を偽る必要はない。むしろ、自らの弱さを謙虚に認め、ありのままの自分を慈しんでほしい。失敗は敗北ではない。ベストを尽くしたのなら、そこから新たな人間としての深みが生まれるのである。理想的な未来が訪れるのを待つのではなく、今、この瞬間に感謝し、精一杯生きること。
私は常に、皆さんの持つ無限の可能性を信じている。自らの内なる声に従い、誠実に、そして謙虚に歩み続けてほしい。その一歩一歩が、あなただけの、誰にも代えがたい物語になっていくのだから。
重松先生へのご相談は、弊誌アドレスまで kya01311@nifty.com

スティーブン・重松 先生
~Profile~
ハーバード大学大学院にて教育学博士号を取得。東京大学助教授を経て、20年以上にわたりスタンフォード大学で教鞭を執る。教育、心理学、人文学を横断する革新的な教育プログラムの開発に取り組み、学生一人ひとりが自分らしい生き方や社会との関わり方を探究する学びを実践してきた。スタンフォード大学優秀教員賞受賞。主な著書に『スタンフォード大学マインドフルネス教室』『スタンフォード式 最高のリーダーシップ』『スタンフォードの心理学授業 ハートフルネス』『スタンフォード大学 いのちと死の授業』などがある。

