雑賀恵子の書評
頭木弘樹 医学書院 2020年
京都薬科大学を経て、京都大学文学部卒業、京都大学大学院農学研究科博士課程修了。大阪産業大学他非常勤講師。著書に『空腹について』(青土社)、『エコ・ロゴス 存在と食について』(人文書院)、『快楽の効用』(ちくま新書)。大阪教育大学附属高等学校天王寺学舎出身。
日常を「フツー」に生きていると、「フツー」というのが実は「フツー」ではないことにはなかなか気がつかないものだ。だって、「フツー」なのだから。「フツー」ではない状態になってようやく気がつく、ということがある。「フツー」ではない状態、その一つが、病気だ。
二十歳の普通の大学生だった著者は、突然潰瘍性大腸炎という難病になり、以降35年以上、この病名の身体を抱えて生きることになってしまった。名前から分かる通り、大腸、つまり食べて出す通路に潰瘍ができて、食べると血の混じった激しい下痢を起こしてしまう。食べなければ死ぬけれども、食べると余計に死んでしまいそうになるというわけである。
発病してすぐの治療は、静脈に直接輸液を入れて栄養補給しながら一月以上もなにも口にせず、飲み込むことなく、完全に絶食する、というものだった。そこで、栄養が補給されているのに、飢餓感があることに気がつく。自分の中にあるさまざまな器官、胃袋、喉、顎、舌…。それぞれの輪郭がはっきりして、それぞれが著者に訴えかけるのだ。
絶食が終わった後の食べ物を口にした時の感覚、それから食/味覚に対する劇的な変化。感覚も思考も、慣れを吹き飛ばし、鋭敏に反応するようになった。食べるということが、身体というとても複雑なものと外部とが織りなす重層的な意味を持ったやりとりであり、「食べることは受け入れること」が鮮やかに描き出される。
受け入れるというのには、共に食べることに意味を見出す人間関係も含む。コミュニケーションとしての食事文化がある以上、一緒に食べられない人間は、他人からは面倒な人間だと見られることになる。「受け入れる」ということは、受け入れないものを排除するということと裏腹なのだ。同じものを食べるもの同士はまとまり、そうではないものと分断線をひく。宗教的な食べ物のタブーもここにあると著者は考える。
食べることは人との関係の中で重要だしおおっぴらなのに、出すことは人前ではとても恥ずかしいことであるのはなぜか。出すことの失敗は、人を無力にしてしまう。そして人前で恥ずかしさを感じると、人に服従してしまうという心理に陥る。
緩やかな状態になっても悪い方へぶり返し、治ることの望みがとても薄く、食事の制限も多い上、下痢のために日常生活もカセがはめられるが、直ちに死ぬというわけではない、厄介な病気。
本書は、闘病記ではない。「フツー」でない身体で日常を生きている著者が、自分の身に起こったこと、考えたことを、小説や映画の言葉の引用をちりばめながら、軽やかに、ユーモアを交えて語っていく。「フツー」に思っていたことを著者にひっくり返されて、「フツー」というのは思考の「不通」だったのだなあと、目から鱗の驚きの連続に満ちた本である。