数学はお好きだろうか?評者は、小学校に上がる前から、すでにマイナスの概念がわかり、小学校の算数のなんとか算というのは頭の中で代数的にイメージして解き、幾何学も代数学も得意だった。そう、三角関数が出てくるまでは。というのは、微分積分での三角関数の公式が覚えられず、次々と出てくる複雑な公式をまず覚えてなければ問題が解けないところや、頭の中でイメージができないところでつまずいて凡人以下になってしまったからだ。大学では初歩的な数学の講義は取るには取ったけれども、いろいろな記号が何を意味するのか、その意味とは何かがさっぱり理解できず、諦めた。学校教育における数学は、物理学や数理経済学などに進んでいくための基礎の方法であって、数学の勉強とは問題を解くことだと片付け、以降は手を切った(というよりも数学の世界から切り捨てられた)。
ああ、なんという間違い。計算することは、単なる技術ではないし、数学はパズルではない。古代ギリシア哲学において数学で世界を記述することが重んじられ、デカルトが座標系で代数学を発展させていったのはなぜか。それは、世界をどう認識し、どう理解していくか、ということに大きく関わっていたのである。
本書第二章冒頭に、ジェレミー・アヴィガッドの言葉が引用されている。
「数学の歴史は、人類がその認識の届く範囲を拡張するためにあらゆる手段を尽くしてきた歴史であり、理解する力を押し広げるために、概念や方法を設計してきた歴史だ」。
学校教育での数学は、人間の認識とは関係ないところにある普遍的な公理や規則の体系があって、それを個別に落としていくという演繹的な教え方をされる。そうすると、数学は、閉じたものであってそこから新しい概念や世界が広がっていかないように思い込んでしまう。そうではないのだ。
そもそも数とはなんだろう。実在の事物とは関係のない概念ではある。しかし、一方、事物を数えるということは、個別実在の身体を伴った行為だ。生物である人間が事物を認知するのには、感覚器官をもつ身体が必要だと思われるからである。著者は、30代半ば、数学をテーマに著作や講演、「数学の演奏会」などのライブ活動を行う「独立研究者」。確実な知識とはなんであって、それを得るにはどうすればよいのかをめぐる知の営みを、古代ギリシアから現代までの数学者たちの思考を紹介しながら語り続ける。語られる数学は難しいのだけれども、認知にとっての身体性の意味が、明晰な文体で鮮やかに浮き彫りになってくる。
身体性を持たない人工知能研究は、数字で一般化して固めていくのではなく、むしろ、知能を実現させるためには状況や身体が必要である生命というものの探求にも向かっていった。最終章「計算と生命の雑種」では、地球環境の激変をはじめとする様々な危機に直面する現代において、計算による認識の拡張とともに、生命体である人間の自律的な思考と行為による意味の生成の必要が呼びかけられる。
計算する生命。計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編みなおし続ける。タイトルにこめられた著者の熱い想いに気づいたとき、力強く、自分が広がっていくのがわかるだろう、きっと。