相手の立場に立ってその人の気持ちを考えなさい、と諭されたことはあるだろう。だが、たとえば、いじめをしている人の立場に立って、気持ちを考えて自分も同じ気持ちになったとしたら、いじめを肯定してしまうのではないか。共感するというのは、そんなことだろうか。そもそも、他人の立場に立ってものを考えることで他人を理解できるということは、他人と自分が「同じ」であり、交換可能なものであることが前提となっていなければならない。その前提は、生まれも育ちも、ものの感じ方も何もかも違う人間において、いつも成り立つとは限らない。こうしてちょっと突き詰めると、他人の気持ちに対して共感する、ということは何を意味するのかさえ分からなくなってくる。とはいえ、他人とは理解できないものだと切り捨ててしまっては、一歩も踏み出せないし、何も変わらない。
多様な存在の集まりである社会で軋轢を少なくしながら共存していくことや、個人間でもうまくやっていくことを「他者を理解すること」から考えるとき、「共感」がキータームとして近年よく用いられるようになったが、エンパシーという言葉も耳にする。情緒的な意味に力点がかかるシンパシー=「同情」に対置するものとして、日本語ではエンパシー=「共感」としているようだ。著者は、ベストセラーとなった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』でエンパシーという言葉に注目を向けた一人である。「共感」と訳されがちなエンパシーを、英語圏でも、論者ごとに異なると言っていいほど多様な定義、意味で使われていることを解きほぐすことから始めて、多様性社会を保証するためのエンパシーを探ったのが本書である。
著者は、貧困家庭に育ち、高卒後英国に渡り、のちに保育士の資格を取って失業者や低所得者が無料で子供を預けられる託児所で働いたり、20数年英国社会でさまざまな経験を重ねて、現在英国で翻訳やライターとしての活動をしている人だ。経済格差と多様性という二つを根底に置いて発せられる彼女のレポートや著作は、とんがっていながら、空気を求めて融通無碍に広がっており、ドライブ具合がかっこいい。
エンパシーをめぐる本書も、様々なフィールドを縦横無尽に駆け巡る。諸議論で使われるエンパシーの語義や歴史。大逆事件で検挙され獄中死したアナキスト金子文子のエンパシー。米国の刑務所で行われる「回復共同体」プログラムのドキュメンタリー映画(坂上香監督)。SNS。ミラーニューロン理論からの脳内と共感の問題。コロナ禍によって剥き出しにされたケア階級と経済の問題。サッチャーの経済政策から見るシンパシーとエンパシー。ジェンダー…。いまここにある、この現在、この世界を剥き出しの肌が捉え、生きる足場をしっかりと確かめながら、彼女の文章はこちらに向かってまっすぐ投げられる。「異なる者たちが共生している『あいだの空間』で民主主義(すなわち、アナキズム)を立ち上げるには、エンパシーが必要だ」という彼女のボールを、どう受け止めるか。「すなわち、アナキズム」を、わたしたちも知力を傾けて読みとこう。この「わたし」の生きる足場を固め、他者と共に思いっきり呼吸のできる空間を求めるために。