例えば、「新自由主義」を引いてみる。説明文中の一文。「(…)貿易自由化によって一国の経済を多国籍企業の食いものにするとともに、国内的には民営化と規制緩和、社会保障・福祉・医療・教育などへの公的支出削減を政策の柱に『小さな政府』をめざす。手前勝手な『自己責任』の哲学をふりまわし、教育は自己投資、失業は能力不足のせいとほざく」。なるほど。
次に「負債」。「(…)借りたらさいご、債務奴隷まっしぐら。負債は支配・統治の手段なのだ」として、国家に埋め込まれた負債システム=資本主義について触れる。そして、「いっさいの負債はデッチアゲであり、したがう必要がない」。えっ、そうなの?
それなら「学費」。学費が高額なら、経済的に不利な家庭の子どもは大学に行けない。学生がバイト漬けなら、安価労働力が労働市場に大量参入するから賃金を押し下げる。親に出して貰えば、親への依存を生んで自立が奪われる。奨学金は高利の借金。返却のために定職に就かねばならず、生き方の多義性を殺す、というのが要約。
性格が歪みそう? いやいや、本丸をズバッと撃ってるよね、と納得する?
本書は題名の通り、「ことば」「ひと」「出来事」「シネマ」と四つのジャンルに分けて、五十音順に並んだ用語集である。用語集であって、用語辞典ではないのは、明らか。つまり、中立的(?)な用語解説ではない。わたしたちの生きているこの社会がどういうものであるのか、それを考えるために、取りかかりとなるような単語を集めて、著者が切った本である。ただし、切ってみせてはいるが、捌くまでいかない。それをするのは、読者の側だからである。
本書の目的は明確だ。冒頭の「はじめに」で、この「社会」の自明性をはぐこと、「あたりまえ」を疑ってみる/疑うことだ、と宣言している。
この社会の「あたりまえ」を疑う、ということは、ひいては、親や教師が言っていることばかりではなく、学校教育で習ったものすら疑うことを含む、と私は思う。過激に聞こえるだろうか。いや、そもそも「学問」とか「研究」の基本の一つは、この疑うということなのだ。そんな大上段に構えなくとも、自分が誰とも取替のきかない自分であることを自分がまずしっかりと認め、自分が伸びやかに呼吸できるような空間を確保するためには、自明だと思っている/思い込まされているものを疑うことが大切だ。
これは、呼びかけの本である。「用語」に対する著者の説明に驚いたり、納得したりしても、その説明を丸呑みにしてそこにとどまっていてはつまらない。呼びかけに応えて、さあ、自分の思考を紡ぎながら、もっと遠くへ行こう。