タイトルにぎょっとした方もいるかもしれません。この問いは、誰が誰に向かって投げかけたものなのか。「こんなことなら、生まれてこないほうが良かった」と絶望した人の嘆きを聴き取った人は、そう思わせる状況がなんなのかを考え、どうにかしようとするでしょう。誰だってしあわせに生きていたいものだということは所与の自明のものとされ、それができないからそういうことを言うのだ、と受け取るからです。そもそも、もし自分が生まれてこなかったのなら、今ここでそう考えている自分(主体)はいないわけで、どちらが良かったのか、自分(発話主体)が比較することはできません。つまりこの問いは通常、どちらが良かったかという比較に関するものではなく、自分の現在を受け入れられない人が、誰かに自分をそれでもなお肯定して認めて欲しいとか、自分の状態を救って欲しいとかの願いを込めて絞り出した叫びのようなものだと捉えられるのです。
ではそうではなく、「一般的な問い」として、この問いを捉えるとどうなるでしょうか。これと格闘したのが本書です。古代より現代に至るまで、人間が生まれてくることや、人間を生み出すことを否定する思想があります。大まかに反出生主義と呼ばれるものです。著者は、自分が生まれてきたことを否定する思想を「誕生否定」と呼び、人間を新たに生み出すことを否定する思想を「出産否定」と呼んで区別します。近年、哲学者デイヴィッド・ベネターの、全ての人間の誕生は害悪であり、人類は出産を諦めることにより消滅するのが良いという本が話題になりました。著者は、古代ギリシア文学やインド思想、ブッダの哲学、ゲーテの『ファウスト』やショーペンハウアー、ニーチェなどを丹念に解きほぐしながら、誕生の否定と肯定の思想に真摯に迫っていきます。誕生が良いか悪いかを功利主義的に論じたベネターを退け、「誕生肯定」を打ち立てるためです。著者のいう「誕生の肯定」とは、「生の肯定」や「人生全体の肯定」ではなく、自分が生まれてきたことを本当に良かったと心の底から思えることです。
これまで生命倫理や環境哲学など現代の私たちが直面している問題を幅広く論じて、「生命学」を提唱してきた著者は、さらに「生命の哲学」という領域を切り開くことを本書において宣言しています。もしかしたら、著者自身が生きて在るために踏み締めることのできる強い地面を求めているからかもしれません。しかし、だからこそ、わたしたちは「生命の哲学へ!」という呼びかけに応じ、本書の言葉の森を辿り自分の生をかたちづくっていけるのでしょう。