恐竜の嫌いな子はいない(だろう、多分)。地球上のどこにも、今、恐竜はいない。絶滅してしまったからだ。なぜ2億年近くも興隆を誇った恐竜の時代が終焉を遂げたのか。それは、ユカタン半島のちょっと先の浅瀬に墜落した巨大隕石の影響だ、と言われている。科学番組などのさまざまな再現映像で見たら、1日で地球の裏側に達するという凄まじい熱波や衝撃波、降り注ぐ岩石や有毒物質の地獄絵に、あっという間に恐竜たちは壊滅状態に陥ったという印象を持つ人もいるかもしれない。だがそういうわけでもなく、隕石衝突による地球環境の激変や粉塵が地球を覆うことによって起こる寒冷化などで食物連鎖が断たれ、彼らの舞台は幕を引かれるのである。地球上の生命体のかなりの部分が絶滅してしまう大絶滅期は、知られているだけでも5回ある。このような絶滅は、厄災のような地球環境の激変だから、絶滅したのは、全くもって運が悪かったと思えてしまう。たまたま変化した環境に適していたものが、運よく生き延びたのだろうか。
だが、そればかりではない。地球46億年、生命が発生してから40億年という長い時間の中で、想像もつかない多くの生命が生まれたが、生物種の99.9%は絶滅してしまったという。なぜだろう。ここで頭に浮かぶのが、進化論。進んで変化していく、というから、生物は優れたものが生き残り、劣ったものは滅び去る自然淘汰という競争ゲームによって世界は成り立っている。だから進化の先端にいる現在の人間は、700万年前チンパンジーと分かれた人類の祖先よりもさらにずっと優れている、とするのが進化論だと受け止めている人もいるだろう。一方、そもそもが生存競争というゲームではなく、環境に適応したものが生き延びたという適者生存だ、というのも進化論である。では、適者とは何かというと、生存したこと自体によって定義される。よく考えれば、これはトートロジー(同語反復)で、定義になってない。一体、進化論って、なんだ?
進化するって、わたしたちは日常的にもよく使うし、自分のいる世界でより良い姿や生きる方法を持つことではないの?
本書は、絶滅してしまったものたち(=敗者?)の側から進化を眺めることから始まる。そうすると、絶滅というのは、理屈や法則を超えて、運や遺伝子(能力)が絡んだ理不尽なものとしか言いようがないものになってくる。そして、自然淘汰や適者生存の俗流理解をときほぐしながら、進化というものをめぐる現代の進化論者たちの議論に踏み込んでいく。と、まとめあげれば、進化論の解説書のように思えるが、そこに留まらない。「進化論」という思想を足場に縦横無尽に広がる本書を読み進めば、サイエンスの思考のあり方や、サイエンス(観察-言語化/理論化-実証-操作)の領域には捉えられないアート(言語/理論化し得ないもの)の領域にも目を開かされる。随所に置かれた註が、これまた読者の興味を掻き立てる。生物進化をめぐっての議論なのに、もしかしたら、わたしたち自身の世界観も揺るがせかねないくらい、ドライブをきかせて見せてくれるのだ。要するに、めちゃくちゃ面白い「哲学書」だ。