雑賀恵子の書評 – 食べることの哲学

雑賀恵子

~Profile~
京都薬科大学を経て、京都大学文学部卒業、京都大学大学院農学研究科博士課程修了。大阪産業大学他非常勤講師。著書に『空腹について』(青土社)、『エコ・ロゴス 存在と食について』(人文書院)、『快楽の効用』(ちくま新書)。大阪教育大学附属高等学校天王寺学舎出身。

食べることの哲学
檜垣 立哉
世界思想社
2018年

 わたしたちの身体は、食べること及び呼吸することによって外部から物質を取り入れ、身体の恒常性を保ちエネルギーを産生する。食べることは、外部と私を繋いで関係性を築くことであり、生きるというのは外部と私の絶えない交通の中で営まれる。この交通は、生命の運動だ。わたしたちの食べるものは、水と塩を除いてはすべて生きものだからである。

 わたしたちは、そうして成り立っている身体であり、動物であり、つまりは生命である。一方で、人間は言語を持ち、技術を発達させ、社会というものを創り上げてきた。人間として生きるとは、構成された文化のなかで生活をするということである。

 哲学者の檜垣立哉は、まず人間を生物であると押さえた上で、動物としての身体と文化としての身体が絡み合い、ぶつかりあって存在するものと捉える。このぶつかりあいがみやすい姿をとって現れるのが食べるということであるとして、考える現場を食にさだめて思考を巡らせたのが本書である。

 まず、文化人類学者であり構造主義の潮流の中心として20世紀の思想を率いた一人であるレヴィ=ストロースの「料理の三角形」という概念を用いて、自然を文化に統合するものとしての言語と料理について考える。料理とは、自然からの食材を加工することであり、そこから技法が洗練される。肉体が発することができる音を調整し、規則化するのが言語だ。「自然をもちいながら切れ目をつくり、あるいは対立点を際立たせ、それによって文化という仕方のなかに包摂していく」。そのことで言語でも食でも共通のシステムをかたちづくっているというのである。

 食べるということをつきつめていくと、生きものを食べるのだから、殺害という項目にいきつかざるをえない。わたしたちは、何かを殺して食べているのだ。そして、食べるということと食べられるということとは、同じ平面上で進行している出来事だ。自然は、世界はそういうふうに成り立っている。わたしたちの身体は、その一部として置かれている。評者(雑賀恵子)の『エコ・ロゴス』を中心に据えて、檜垣は思考を進める。死に瀕する極限においては、食という形で生命を欲する身体は、欲する生命を分類しない。つまり人間をも食べる。通常は、カニバリズム(人肉食)を忌避しており、文化は同類食を退ける。ただ生きているだけの原初的な「剥き出しの生」(ゾーエー)と、法や言語といった制度化された生(ビオス)とが衝突する場所としてカニバリズムを設定して、生きるということはなにごとかを探っていく。生きるというのは明確に言語で表現しうることばかりでは決してなく、グレイゾーンの中でさまよっているものでもあるのだ。

 哲学、徹底的にものを考えていく試み。それを愛すること。食べることの哲学とは、生を愛することを見出そうとすることだろう。

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