青に溺れるってなんだろう。
著者はどこにいっても青い美しいものを探している、という。世界各地を旅した著者は、とりわけイスタンブールで青い美しいものへの嗜好が存分に満たされる。モスクの暗い内壁を光が淡く青色に照らす、上品な荘厳さ。青と青緑とクリーム色がとろけるように混じり合う装飾タイル美術館の入り口…。青の饗宴だ。なぜ青に惹かれるか。それは、著者によると自閉スペクトラム症がある人の傾向らしい。自閉スペクトラム症があると自然界からの吸引力が強まりやすいそうである。空や海の色が青いからかもしれないし、逆に空や海に強く惹かれるので、青が好きなのかもしれない。いま思い出しても、記憶の中に収まったイスタンブールの青に溺れそうになる、と著者は書く。イスタンブールの記憶は、石原吉郎の詩にある「無防備の空」や「正午の弓となる位置」という言葉となぜか重なる。これもまた、自閉スペクトラム症の「こだわり」だとしている。
そう、著者の横道誠は、自閉スペクトラム症(ASD)と注意欠如・多動症(ADHD)の診断を受けている文学研究者である。40歳の時に受けたこの診断によって、なんだか多くの人と違うようだけれどもといぶかしんできた自分のしっぽを掴むことに成功した、と別のところ(『みんな水の中』医学書院、2021)で述べている。長年いぶかしむということは、世界との関わりのなかで自分が生きる仕方に、他の人たちとの違いを感じて苛立った思いもしてきたのだろう。どうしてなのかということを外部から診断されることで、腑に落ち、著者は自分の身体をフィールドとして発達障害というものを考え、当事者研究に踏み込んでいく。それをまとめたのが『みんな水の中』である。
横道は発達障害とされる人たちを「私たち」と表現しているが、しかし、「健常者/障害者」ときっちり線引きできるものではない。神経発達ということからみれば、人間の脳は多様な形をとる。つまり、定型に属する人もそれぞれ多様であり、定型と非定型はグラデーションとイメージしてもいいかもしれない。「自分」を文化人類学の手法で観察・研究し、哲学や言語学、文学から得たものを入れ込んで、ケア、セラピー、リカバリーを見通す。「詩のように」言葉を紡ぐパート、「論文的な」記述で考察するパート、「小説風」のパートの三部構成は、ページの紙が青、白、水色で縁取りした白で塗り分けられている。
「自分」を旅した記録が『みんな水の中』だとすれば、その自分が世界各地を旅した記録が『イスタンブールで青に溺れる』だ。取り上げた25の都市に、色彩が溢れだし、不意に思い出される小説や詩の言葉が散りばめられ、過去の記憶が召喚される。「発達障害者」の世界とのきり結び方のぎこちなさが冷静に分析もする。それらがないまぜになった、これは一体エッセイなのか、評論なのか、小説なのか。
そして、読むものは知的興奮に溺れるのだ。