自分は理系だから国語が苦手だとか、逆に文系だから数学はわからないとか、いとも簡単に決めつけることがある。こうした文系・理系の分け方は当然のように受け入れているけれども、実際は日本の大学受験の際に必要なだけだ。経済学のある分野はほとんど数学の世界だし、動物実験中心の心理学というのもある。ではあるが、理系か文系かという区別は、進路を決めるのに決定的といっていいほど受験生を縛り付けている。では、博物学は理系、文系のどちらだろうか。博物館はあるが、博物学部とか博物学科というのは聞かない。そもそも博物学とはなんだろう。
読書家であり文系志望だった著者の池内了は、中学の頃、優秀であるが理数系に弱い兄(独文学者の故・池内紀)に対抗して理学部に進もうと考え、大学院では天体物理学を研究した。厄年を過ぎる頃、天文学者としての自分の才能に迷いが生じ、研究場所を国立天文台から阪大、名古屋大へと変え、他の分野の研究者と交わるうちに、宇宙を見上げる仕事から宇宙からの視線で地上を見下ろす仕事(科学・技術・社会論)へと重点を移したという。理系知と文系知を融合して両方の視点からものを見るようになったのだ。
このような視線は、洋の東西を問わず昔から博物学に備わったものであり、西欧では自然科学発祥の母体となっていった。日本では、薬草・薬物の研究(本草学)やら希少な動植物の蒐集・観察が博物画などとして花開き、博物学は、遊び・洒落・機知・粋や潤い…といった江戸文化を体現するものとなっていく。それが西欧科学の輸入に勤しむ近代化の流れの中で、実利に結びつくような科学技術一辺倒となり、自然と密接して生きてきた人間の営みと結びつき異質なものが入り混じった博物学は忘れられてしまった。科学を難解な知識の塊として捉える現代の学問のあり方はさみしいものであり、文化をひ弱なものにしているのではないかと著者は嘆く。
そこで、理系の知識と文系の人間の営みを合体し融合させて、読む人が科学と文学を同じ地平に捉えることができる作品ができれば素晴らしい。そう考え、「池内流の新しい博物学」として書かれたのが本書である。
とはいえ、小難しいものではなくて、さすが江戸の博物学に遊びや粋をみた人である。レンズや磁石、ブランコ、真珠にフグ、ホタル、朝顔、彼岸花などを対象に、古今東西の小説や詩歌、歴史に残るエピソードを綴り、角度を変えて物理学や化学などの方面からの知見を織り込み、軽やかに語っていく。洒脱なエッセイ集であり、これを雑学、学者の余技とすることほど愚かしいことはない。ものをよく観察し、知ること、思考の方向を決めつけないで自由に遊ぶこと。そうして自分の世界を広げ、深めていく。知ることの悦びが、ここにある。