オピニオン・連載

雑賀恵子の書評 謝罪論(古田徹也:柏書房、2023年)

――謝るとは何をすることなのか

 蹴ったボールがたまたま教室のガラスを割ってしまった。謝りなさい、と先生に叱られた。とりあえず「すみません」と言ったら、それですむと思っているのかとまた叱られた。すみませんがいけなかったのかしら。言い方が悪かったのかな。謝れと言われても、しようと思ってしたわけじゃない。単なる過失なのだし、先生に直接迷惑をかけたわけでもなし、なんで謝らなくてはらないのか納得できない。あれ?、謝るってなんだろう。
 私たちは日常的に謝罪したりされたりして生活しているし、謝罪とはどういうものかはわかっている。だが、謝罪とは何かを言葉で説明するのは一筋縄ではいかないらしい。謝罪という言葉で括られても、行為や意図のあるなしや結果において軽いものから重いものまであり、あるいは誰が誰に対して謝罪するのか、いつ(まで)謝罪するのかの時間の幅についてもいろいろである。電車で揺れて足を踏んだというものから、国家規模のものまである。したがって謝罪をなんのためにするのかも一義的には言えない。
 ただ謝罪は、人と人のあいだでなされるということは変わらない。謝罪は、人間関係の維持や修復、つまり、社会で生きることと深く関係しているのだ。本書は、わかりやすく事例を挙げてそこで起こっていることの具体的な中身を解きほぐし、謝罪とは何かに迫っていこうとする。
 「すみません」という言葉は、呼びかけから重大な迷惑や損害を与えた場合まで使われる。その他の定型的な謝罪の言葉も同様だ。さまざまな具体的な場面の事例をめぐり、謝罪の言葉を細かく検討することによって、「軽い謝罪」から「重い謝罪」までのスペクトラムがあることが示され、謝罪の言葉の字義通りの意味と発語の背景にある意図や感情、謝罪によって目指すものなどが、主として言語哲学の手法で明らかにされていく。続いて「重い謝罪」を取り上げ、その典型的な役割とはなにかが分析される。さらに、社会学などでの謝罪についての先行研究を批判的に取り上げつつ、具体的な事例から謝罪の諸特徴を浮かび上がらせる。さらに、それらの特徴に当てはまらない例を挙げ、定義することのできない謝罪という領域の全体像に接近していく。
 身近でわかりやすい事例が、丁寧に腑分けされ、いろいろな角度から光が当てられる。ああでもなくこうでもなく、こちらから、あちらからとぐるぐる掘り進めていく著者の思考についていくと、普段考えもせずに当たり前にしていたことがなるほどこういうことでもあってこうなのだと目を開かされるだろう。
 本書でなされる探求の営みは、わたしたちの生活や社会について、ひいては自分自身について、より深い理解を獲得することにつながるはずだと著者はいう。そして、謝罪とは何をしようとしているのか、何が求められているのかを詳しく明確に捉えることは、自分自身を知り、自分の心情や思考を整理して、不適切な、あるいは不要な謝罪を回避することにつながるのだと。
 そうだ、謝罪とは、人や組織体、国家の関係の中でできてしまった傷を明らかにして修復し、共にいきるために社会に埋め込まれた技術に違いない。

~筆者Profile~
京都薬科大学を経て、京都大学文学部卒業、京都大学大学院農学研究科博士課程修了。大阪産業大学他非 常勤講師。著書に『空腹について』(青土社)、『エコ・ロゴス 存在と食について』(人文書院)、『快楽の効用』(ちくま新書)。大阪教育大学附属高等学校天王寺学舎出身。

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