オピニオン・連載

雑賀恵子の書評「むなしさ」の味わい方 きたやま おさむ 岩波新書、2002年

雑賀 恵子

~Profile~
京都薬科大学を経て、京都大学文学部卒業、京都大学大学院農学研究科博士課程修了。大阪産業大学他非常勤講師。著書に『空腹について』(青土社)、『エコ・ロゴス 存在と食について』(人文書院)、『快楽の効用』(ちくま新書)。大阪教育大学附属高等学校天王寺学舎出身。

 白い雲は 流れ流れて/今日も夢はもつれ わびしくゆれる/悲しくて 悲しくて/ とても やりきれない/この限りないむなしさの/救いはないだろうか
「 悲しくてやりきれない」という1968年の歌の2番である。古い歌だが、多くのアーティストにカバーされ、映画やドラマなどでも使用されているので聞いたことがある人も少なくないだろう。歌ったのはザ・フォーク・クルセダーズ、本書の著者であるきたやまおさむ(北山修)はそのメンバーであった。医学生時代にフォークルを結成し、解散後も数々の名曲の作詞なども含めて音楽界で活躍した。一方医大卒業後は精神科医の道に進み、九州大学教授を定年まで勤め上げて現在白鴎大学学長、医学界でも活躍している。精神分析学関係でも文化論関係でも専門書から一般書まで著書は多数、華々しく羨ましい人生だ。そのきたやまおさむが「むなしさ」について書く。
 期待したものに裏切られたり、愛していた相手が亡くなったり、何かを求めていたのに意味のあるものが得られないなどという、自分の外側に空虚なものができてしまう「むなしさ」。自分自身に価値や中身、生きている意味がないと感じるような、自分の内側に空虚なものが生じてしまう「むなしさ」。前者は対象喪失、後者は自己の喪失であり、自己が対象に強く依存しているなら、対象喪失は自己の喪失に結びつき、内も外も空っぽになって深刻な「むなしさ」に陥ることになる。
 本来私たちは、常に「間(ま)」に囲まれている。ところが現代社会では、相手との「間」があってはならないようだ。「間」を埋めるために、溢れるばかりの意味のない言葉や情報、商品が用意されている。ないものはない社会は、「間」つまり喪失を感じさせない社会であり、喪失を喪失した時代だ。しかし意味のない言葉や情報の氾濫している現代は、実は大きな「むなしさ」のそばにある。「むなしさ」はあって当然であり、「むなしさ」に慣れ、呑み込まれない術を身につけなければならない。
 自己と外界とのかかわりの中で「むなしさ」が生まれてくるが、自己と外界をつないで「間」を埋めるのは言葉だ。本書でおもしろいのは、言葉の連想によって意味の連関を分析していくところである。原初的な自己を包摂する母との「チ」のつながり、チは血、乳、父、口、膣、命、大地と私たちに親密で生々しいつながりを連想させる。チの「つながり」に意味が与えられ「通じる」。言葉の「意味(イミ)」が結果という「実(ミ)」をうみ「身(ミ)」になる。私たちの身につけている日本語がほぐされて、意識が読み解かれる。だがなおも分明されない、どろどろと泥(ナズ)む心の沼がある。未処理、未消化のものたちを沈める心の沼は、創造の場でもある。「むなしさ」を混乱させたまま沼におき、たちのぼるもやもやを味わう時間は、人との関係性や自分自身に奥行きを持たせると、きたやまはいう。取り返しのつかない喪失、わりきれない「むなしさ」は味わうしかない。自身いくつも、いくども味わいながら、ここに生きてある北山修だから言い切れるのだろう。

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