――〈書物〉について
(青土社 7月18日刊)
新刊について、自ら書評を書いてみた。
本紙『雑賀恵子の書評』でおなじみの筆者による一人語り。
文筆家。京都薬科大学を経て、京都大学文学部卒業、京都大学大学院農学研究科博士課程修了。大阪教育 大学附属高等学校天王寺学舎出身。著書に『空腹について』(青土社)、『エコ・ロゴス 存在と食について』(人文書院)、『快楽の効用』(ちくま新書)がある。本誌では、2008年11月発行の79号から、ほぼ毎号、書評を寄稿。
今回は、わたしの『紙の魚の棲むところ <書物>について』を紹介します。
紙の魚といえば古紙などにつくシミのことで、部屋に溢れかえった本についての話かしら、と想像されるかもしれません。でも、そういうわけではないのです。
わたしのいるこの世界が、もし一冊の書物だとしたら、と考えてみましょう。書物ですから、書かれていることには意味があるはずです。その書物の中で、<わたし>という存在も意味のあるものとして、そして役割のあるものとして置かれている。
たとえば、わたしを「さ」という文字とします。「さ」そのものは、形はあるけれども、そして誰かに読まれる時には[sa]という発音として声に出されるけれども、「さ」は「さ」であって、それ以上のなにものでもないというか、「さ」としか言いようがない。一方、あらゆる言葉を作る可能性をうちに秘めています。ところが、他に配置された文字との関係で「さくら」になったり、「さびしい」になったり、「さそう」になったりします。それぞれは前後のことばとの関係によって意味を持ちます。そうして、その「さ」は文章の中に閉じ込められます。
<わたし>は社会の中で、年齢や性別、生まれた場所や所属や地位など、さまざまな網に捉えられてその都度のレッテル=意味をつけられます。レッテルが意味だというのは、貼られたレッテルに相応しい振る舞いや在り方を要求されたり、自分は実はそうではないのだとしてもそういうふうに見られたりするからです。さらに、自分のいま生きている社会は、大きなひとつの物語みたいにすでに決まったものであって、自分ひとりでは変えられないもののように思い込まされたりもします。
だが、書物の中に巣食っていながら、書物が持つ意味とは無関係に書物を食い荒らすものがいる。小さいけれども、書物に閉じ込められた文字を意味から解放し、「さくら」が「さら」になるように別の可能性を開くこともある。それが紙魚です。厄介ごとをもたらす「巣食う」紙魚は、「救う」紙魚になるかもしれません。
そのように、社会のなかにありながら社会が押し付ける網に捉われず、自由に泳ぎ、システムをずらしていく在り方を、多分ずっとわたしは探し求めてきた気がします。
この本は、主として『ユリイカ』という雑誌に書いたものをまとめました。雑誌の特集テーマに沿って、大江健三郎や宮沢賢治、石牟礼道子といった文学者、荒川弘(『鋼の錬金術師』ほか)や赤塚不二夫などの漫画家、『アンパンマン』のやなせたかし、落語家の立川談志、アニメ監督・細田守…そうした作家や作品をめぐって書いたものです。とはいえ、作家/作品論というよりも、どうもわたしは、作家や作品世界の中に、けったいで、不器用で頼りないけれども、システムを奇妙にずらし、綻ばせるものの姿、紙の魚の影を求めて、あちこちと寄り道しながら思考を飛ばしているようです。ですからこの本は、これらの作家や作品を知らなくても読めるエッセイ集です。
どこに身を置いたらいいのかおぼつかなくて、背骨のあたりがなんだか寒い。自分がなになのだかつかめなくて、心をかたちづくることができなくて、わけもなく苛立たしい。息苦しい。そういう人たちに、いや年齢ばかり重ねても未だわたし自身がそうなのですが、少しばかりの空気を送り込むことができたら、とひそかに願いながら書きました。ちょっと面白いと受け取ってくれたら、嬉しい。ほんとうにそう思っています。