第42回 16歳からの大学論
宮野 公樹先生
1973年石川県生まれ。2010~14年に文部科学省研究振興局学術調査官も兼任。
2011~2014年総長学事補佐。専門は学問論、大学論、政策科学。南部陽一郎研究
奨励賞、日本金属学会論文賞他。著書に「研究を深める5つの問い」(講談社)など。
「そういうときは、こうしたらいいんじゃないかな」、「たぶん、◯◯のほうがいいよ」など、我々は日常的に他者に対して提案をしています。例えば、同僚や部下に仕事の現場で、子供や配偶者に家庭において、そして、生徒などに学校等、学びの場において。
もちろん、相手のことを思ってよかれとやっているのですが、よくよく考えてみれば、結局のところ、他人様にアドバイスすることはできない、いや、正しく言うなら「本当に意味のあるアドバイス」はできないということに気づきます。言うまでもなく、自分と他人は違う人間であり、自分が上手くやった経験は自分のものであって、それを他人様に適用して上手くいくとは限りません。それに、アドバイスはえてして先輩や年上が後輩や年下にする傾向が強いですが、自分が体験した時代は過去であり、現在の状況とは異なっていることも多い。自分にとっての「よい」が、常に他人にとっても「よい」とは限らないのです。しかし我々は、とっても気軽に、かつ日常的に「アドバイス」しています。いったいこれはどういうことでしょうか。
もちろん、「私、昨日、このみかんを食べたけど、もう傷んでいた。食べないほうがいいよ」といったように、状況がかなり具体化され、限定的な場合においては「アドバイス」は有効でしょう。他方、「どっちとも内定をとれたのなら、こっちの会社を選んだほうがいい」などといったあまりに不確定要素(勤務地がどこになるか、どの部署に配属されるのか、どんな人が上司になるのか等)が多い状況でのアドバイスはあまり意味がありません。アドバイスする側の個人的な経験を一般化していることには危険性すら潜んでいます。つまるところ、アドバイスするという営みは、相手のことを思ってのことのようでいて、実は、自分語りの範疇にある、とも言えます。
だから(アドバイスするときは)気をつけなさい、と言いたいのではありません。そのような「正しい答え」または「正しそうな答え」を私は持っていません。ただ、ふと我々の「日常」というものを疑問に思い、すこし突き放して眺めてみることで感じることのできるもの、いうならば「日常の不思議」を感じるということは、我々を非常に豊かにしてくれます。それは、人生を味わい深いものにし、また、生きることの肯定にもつながることなのです。 「我々は◯◯できない。」。今後、これをシリーズ化して、色々書いていこうと思っています。(続く)