オピニオン・連載

雑賀恵子の書評 | 世界を変えたスパイたち

雑賀恵子の書評

世界を変えたスパイたち

ソ連崩壊とプーチン報復の真相 書影

『ソ連崩壊とプーチン報復の真相』

著者 春名幹男
出版 朝日新聞出版
発行 2025年

スパイと聞くと、どんな人間を想像するだろう。敵国に潜んで、正体を隠し、政治や軍事、経済関係の秘密情報を収集する人間。公式非公式を問わず国家の諜報機関に属するか雇われているけれども、身分や任務が、家族や周りにも秘密である人間。得体の知れない怖さもあるし、ダークな魅力を感じる向きもいるかも知れない。諜報機関といえばCIAとか、MI6とか、古くはKGBとかが小説やドラマでもおなじみのところだ。どこかの国のクーデターや政権転覆に、CIAが絡んでいるなどと耳にしたことがあるだろう。あるいは誘拐や暗殺とか。諜報活動だけではなく、テロや破壊活動といった秘密工作もする。世界のあらゆるところにスパイがいて、密かに活動しているのだろうな、国際政治などというのはとても複雑に動いているのだろうな、となんとなくわかったふうでいるつもりだが、どこか遠い、自分とは関係のない世界のこと。日常目にする新聞やテレビで報道されている戦争や世界経済の動き、教科書に載っている現代史のさまざまな出来事にスパイが関わっているとは考えない。いや、無論諜報活動などは常時行われているにしても、具体的にどのように活動し関与しているのか知る由もない。

だから、ある出来事と全く別の出来事に実は諜報活動が深く関与し結びついているとまでは考えない。たとえば、2016年大統領選でのドナルド・トランプの勝利は、米国に敵対しているロシアのプーチン大統領の目論んだ情報工作が大きく関わっているなどということについてだ。

本書は、東西冷戦下にある1980年代から始まって、ソ連のアフガン侵攻、ソ連崩壊、プーチン登場、ロシアのクリミア併合やウクライナの問題、トランプ大統領就任、そして22年のロシアのウクライナ侵攻までを、諜報戦という観点から、一連の流れとして読み解いたものである。本書によると、ソ連の崩壊は、レーガン政権がサウジと関係強化に動き石油価格を操作してソ連の外貨獲得を減らし、小麦輸入をできなくして飢餓に導いたことに原因がある。この報復として、プーチンは米国に対してさまざまな仕掛けをし、トランプ大統領を誕生させ、英国をEU離脱に向かわせ、ウクライナ侵攻に至る。この裏で、米国とソ連/ロシアばかりではなく、関係する各国の諜報活動が入り乱れ、二重スパイや寝返り、スパイ同士の駆け引きなども含め諜報戦の行われていく様子が綿密に語られる。著者は共同通信社のワシントン支局長まで勤めた記者。多くの機密文書や証言をもとに描かれているので、とても説得力がある。

スパイ防止法制定を強く主張してきた高市早苗氏が首相の座につき、国益を守るための防諜を名目として報道機関や国民の活動にまで処罰対象になりかねない法律に対する関心が高まっている。確かに本書を読めば、国際関係の動きには諜報が極めて大きな役割を占めていることがわかる。だがしかし、国益とか国家を守るというのはどういうことなのだろう。わたしたちの日々の営みと具体的にどう関わっているのだろうか。わたしたち国民も、外国は常に競争相手であり、潜在的な敵とみなすべきなのか。本書を読んで一層、ごく素朴な疑問が湧いてきた。

評者 Profile

雑賀 恵子 文筆家

京都薬科大学を経て、京都大学文学部卒業。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎出身。著書に「空腹について」(青土社)、「エコ・ロゴス 存在と食について」(人文書院)、「快楽の効用」(ちくま新書)がある。本誌では、2008年11月発行の79号から、ほぼ毎号、書評を執筆。

お問い合わせ

発行所:くらむぽん出版
〒531-0071 大阪市北区中津1-14-2