オピニオン・連載

雑賀恵子の書評「ぼくの昆虫学の先生たちへ 」今福龍太

雑賀 恵子 氏

 「ぼくの昆虫学の先生たちへの架空書簡」といっても、ぼくこと今福龍太は昆虫学者ではない。日本の大学ばかりではなく、メキシコや米国、ブラジルなどの大学に勤務して研究してきた文化人類学者である。それも通常思い浮かべるような地域や民族などに焦点を当てた研究者とは違う。地理上も、時間軸上も、学の枠組み上も、そして思考そのものも境界を越境して自在に羽ばたいている思想家だ。

 その今福龍太は、自らを「少年!」と呼ばれると、子供時代に感じた自由な風が吹き抜ける空白の領域をいつまでも守ろうとしてきたことが認められたようで、少し誇らしく思いさえすると書き始める。さらに「昆虫少年!」といわれれば無上の喜びへと誘われる、という。そんな書き出しは、すでに六十代後半となった著者の郷愁に覆われながらも、いまなお著者の心にあるみずみずしさが噴き出すようで心地良い。少年期の純粋と無垢とがひたすら虫へと向かっていたことは、自分を消し、虫の棲む自然の中に「世界」というみずみずしい感覚を発見する至高の通過儀礼だったかもしれないと著者は捉える。まわりの自然環境があり、虫への情熱を掻き立ててくれた先生があって、ずっと変わらず身体の奥底にとどまって著者を揺さぶっているであろう昆虫少年が生まれた。

 昆虫へと、外の世界へと、少年の情熱を促した14人の先生たちに、それぞれ虫のタイトルをつけて捧げた手紙を編んだのが本書である。

 もちろん(?)アンリ・ファーブル(「ジガバチの教え」)から始まるが、チャールズ・ダーウィン(「カスリタテハの幻影」)や昆虫調査機器商の第一人者志賀夘助(「ギンヤンマの祈り」)といった人たちばかりではない。ヘルマン・ヘッセ(「クジャクヤママユの哀しみ」)、北杜夫(「聖タマオシコガネの無心」)、安部公房(「ハンミョウの流浪」)などの文学者、手塚治虫(「ユスリカの呪文」)のような漫画家もいる。直接の出会いにより、あるいは著作や標本、採集道具などを通して、今福少年の「昆虫学」を導いた人たちを、著者は先生と呼び深い尊敬を寄せる。

 手紙は、この素晴らしい先生たちとの対話であり、先生たちに触発されて昆虫に没入した少年時代との対話であり、昆虫との対話であり、昆虫によって開かれた世界との対話である。先生たちとの対話からものの見方や思考の立ち位置が浮かびあがり、少年時代との対話から今福龍太という思想家の成り立ちが示唆され、昆虫との対話から生命の不思議さについて、世界との対話からこの星に生きて在ることの意味について少しばかり考え始めることができるかもしれない。そして、この本を読むものは、多様な世界への驚きと失われゆくものへの哀惜に満ちた美しい文章に抱きしめられて、自分の中に何かが生まれるような幸福を感じられるだろう。たぶん、きっと。

 

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