連載・寄稿

《16歳からの大学論》

第22回 大学の責任

京都大学 学際融合教育研究推進センター
准教授 宮野 公樹先生

~Profile~
1973年石川県生まれ。2010~14年に文部科学省研究振興局学術調査官も兼任。2011~2014年総長学事補佐。専門は学問論、大学論、政策科学。南部陽一郎研究奨励賞、日本金属学会論文賞他。著書に「研究を深める5つの問い」講談社など。

本当の「学び」とは、自分の幸せに関わるものです。これは、直ちに、テストで高得点を取ることや、大学受験を否定するものではありません。それらとて、自分の望みを叶えるために必要なことなのですから。つまり、なんのために勉強しているのか?という自分の目標や願望のほうが大事だと言いたいのです。それが確固たるものである人ほど、熱心に勉強するのは当たり前のことでしょう。

ところが、その自分の願望、幸せというものをしっかり持っている人は非常に少ない。私もですが、大学進学を決めたときも、つきたい職業やなりたい自分というものを強く意識してはいませんでした。とりあえず大学に行く。そして、これからのことは大学4年間で考える・・・そういう人が大半だと思います。それでいいといえばそうかもしれませんが、ここ最近は、時代がそれを許さないのではないか、と感じることが多くなりました。

その理由の一つは、大学そのものに「余裕」がなくなり、学生が将来を考える豊かな時間や多様な出会いを与えられなくなっていること。例えば、私が大学生の頃は、自分で選択できる科目が多数ありましたが、最近は必須科目が多くなり選択肢がどんどん狭くなっています。毎回の講義で出席もきっちりとります。当たり前といえば当たり前ですが、「学問とは自分でするものであって誰かに教わるものではない」という考えが受け入れられていた頃は、出席の有無はそれほど重要でもなかった。

加えて、就職活動がどんどん前倒しになっただけでなく、数回の面接のみで会社を選ぶのはリスクがあることから、数日から一週間、または一ヶ月単位でのインターンシップに複数参加する学生も珍しくありません。こうなっては、大学は完全に就職予備校そのもの。事実、大学一回生に何か質問は?と尋ねると、「大学の講義が、本当に将来役立つかわからない。どの講義が一番効果が高いか、教えてほしい」というものがここ10年で本当に多くなっています。みな、失敗したくない、メインストリームから外れたくない、そういうマインドが非常に強い。

私はそういう学生に、「将来に役立つことしかせーへんの?」と問いかけます。厳しい質問ですが、これは学問を担う大学で教鞭をとる大学人、学者としての責務なんです。もし、役立つことのみを第一義にすると、関心事や人付き合いがどんどん狭くなり、ひいては、幸福になるために必須である感受性や感謝の心、つまり人生そのものが貧困になるのです。

「将来に役立つこと」はとても大事なことではありますが、それが至上命題になってしまうのは、自分の幸せを横置きし、世間の幸せに合わせようとする行為であり、冒頭に書いたように「自分の幸せ」からどんどん離れていくことなんです。アリストテレスが言うように、人間は「食うこと」以外にも関心を向けることができる動物です。絵や歌や詩や踊り、芸術というものを我々の歴史は持っているでしょう。あるいはわざわざ芸術なんて言葉を持ち出さなくても、芭蕉のように、旅先でふと咲く一輪のすみれに感動できるでしょう。日常にはそういう「食うこと」以外のもの、例えば、感じること、想うことが根源にあり、「生きること」の土台をなしている。それをしみじみ感じること以外に、いずれは死ぬ人間にとって幸せは一切ないのです。

ご存知のように、今、不登校(本当はこの言葉は不適切だし、個人的にも大嫌いですが)の生徒がどんどん増えています。文部科学省の調査によると、令和5年度の小・中学生の不登校の数は34万6482人と過去最多を記録しました。いろんな背景があるにせよ、これは、公教育の制度が時代にそぐわなくなってきていることの現れだと思っています。本当は、人格形成における最も大事な幼少期の間こそ、勉強ができ、先生の言うことをよく聞くのを良い子とし、それらを増やすことをゴールとするのではなく、上記のような「自分の幸せ」について、心身で学ぶ期間としてほしい。

考えてみれば、我々の身の回りのものはすべて誰かの仕事のおかげでできあがっている。身にまとっているこの衣服も、眼の前のPCも、雨風をしのげる家も、日々使う道路も…。それらのおかげで今自分が在るということを感じることが、本当の学びの出発点であり、同時に終着点なのです。(続く)

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