今年2月に上梓した拙書「問いの立て方」(ちくま新書)が既に第三刷になったと出版社より連絡をうけました。さらに、ニュースサイト「NewsPicks」にて書籍紹介がなされ(それがどのくらいのことかよくわかりませんが)、2000Picks以上の評価を頂いたとのこと。ありがたいことです。感謝を込めて、本紙読者の方々に関係ありそうな部分を本書より抜き出し、掲載させていただきます。ご笑覧いただければ幸いです。
●やりたいことが見つからない理由
「何がやりたいかわからない、研究テーマを決められない」という方もまれにおられるでしょう。こんな私のところにも、そのような博士後期課程の学生が訪ねてくることもありますし、研究に限らず、もしかしたら求職中の方も類似した問いをお持ちかもしれません。
• なんでもやってみろ、試してみろ。そうすれば何かが見つかる。
• いったんやりたいこと探しをやめて旅にでもでたらどうだ。
• とにかく本を読め、本屋に行って手当り次第に関心ある本を買え。
• 他人と話しまくれ、誰かに相談しろ。
• 瞑想しろ。
このように、世間ではいろんな「自分探し」、「やりたいこと探し」の方法があり、人によってアドバイスもそれぞれ違うでしょう。本書では何かこれという方法を具体的に書くことはできませんが、この第一章の考えをもって考えるなら、やはりまず「私はなぜそのように思うのか」といった「やりたいことが見つからない、その理由や前提」である観念を探る仕方で考えることから始まるのではないでしょうか。自分はなぜそう感じているのか、内なるもう一つの目をもって、自身の意見、感情、感覚の理由をこそ探索し始めるでしょう。
続いて、その時代性についても思考をめぐらせます。例えば、やりたいことができるというようになったのはここ100年ほどのことで昔は生まれ落ちた場所や家に依存してほぼ人生が定められていたのだ、というふうに。ここで、昔より今がいいという思い込みを持たないことが肝要です。正しく歴史を見るなら、その時代その時代の心持ちというものがあり、例えば、就職が自由にできなかった時代にはその時代の覚悟や趣が間違いなく存在し、現代と同じように人の幸・不幸があったことでしょう。他国に生まれ落ちた場合を想像するのもいいかもしれません。そう、つまるところ幸・不幸の内容は時代や地域によるが、その形式は不変ということです。
自分の願い、願望というものは、考えてみれば自分を超えたところにあるのかもしれない・・・
そのような気分になったのなら、それは存在論に触れていることになります。そもそもやりたいことがあるということがそのまま幸せとも限りません。それに、得てしてやりたいことに没頭している人たちも、結果的にそれに落ち着いただけであって探そうとして見つけたとは限りません。このように存在について考えれば、自ずと(物的に)やりたいことを探そうとするのではなく、(心的に)自身の有りよう、幸せとは何かに問いが深まっていくのだと思います。
哲学者・鷲田清一先生は、読売新聞の「人生案内」にて、何がやりたいかわからない人に対して、まず、自分がやりたいことじゃなく、誰かのために何ができるかを考えてみたらどうかと話されていました。これも一種の無私じゃないだろうかと思い、深く同意するところです。
(「問いの立て方」ちくま新書 第一章 p.94-96.)