宮野 公樹先生
京都大学 学際融合教育研究推進センター 准教授
前回は、興味・関心は誰しもが持つものなのに、大学に籍をおく研究者の興味・関心だけ特別扱いするのはなぜだろうと述べ、結論として「なぜ研究者だけが興味・関心を突き詰めることを仕事として許されるんだろうという問いをもった研究者のみが、その興味・関心を突き詰めるに値するのだ」と締めくくりました。今回はこの結論について詳しく述べます。
素朴に考えると、研究者がその興味・関心を突き詰めることが許されるのは、社会や万民のために役立つから、と回答できそうです。しかし、この「役立つ」という言葉は、本連載第9回「役に立つ研究or 役に立たない研究?」で述べたようにとても曖昧なもの。あらゆる事柄が、いつ、誰にとって、どのように「役に立つ」のかは、まったくわからないからです。言い換えれば、すべてのものが「役に立つ」といえるのです。であれば、研究者がその興味・関心を突き詰めることが許される理由として、「社会や万民のために役立つから」というのは妥当な答えとは言えないでしょう。では、どう考えればいいのか。
それは、第11回「研究と趣味はどう違う?」で述べた結論と実は同じなのです。ここでは、蝶の収集を趣味にする人と蝶の研究者の違いについて取り上げ、研究者は蝶の収集や情報を得ることより、その背後にある原理や法則に関心があると述べました。つまり、蝶を超えたところでの不思議について探求しているのです。大学研究者においてはさらに問いを深め、「では、原理や法則をなぜ自分は知りたいと思うのか」というところまで自問しなければならないと書きました。それについて、この回では満を持して丁寧に追っていきます。
例えば、研究者の自問自答とはこういったものです。「私は蝶の研究者だ。なぜ蝶が好きなのか?それは蝶に美しさを感じるからだ。蝶のどういうところが美しいと感じるのか?色形というより、その生き方だ。ずっとさなぎだったのに突然美しく変態し、1年もたたずに死を迎える。老いて死ぬ人間とはまったく逆だからかもしれない。死の直前が人生で一番輝くときであるとは!では、なぜその人間との違いに惹かれるのか?自分は死が怖いのか。いや、正確に言うと死の迎え方になにか理解を得たいのかも知れない・・・」。
自問もここまでくると、すでに個人の興味・関心を超え、万民に共通する死にまつわる考察へと昇華しています。筆者は、この領域で思考し研究することが学問をになう大学での研究者に求められることだと思うのです。これは決して、死について研究すべきだと言っているのではありません。あるいは、蝶の研究を「通じて」、自分を含めた人というものを探求せよと言いたいのでもありません。蝶の研究と自分を含めた人というものの探求を「重ねる」こと。蝶を見ながら自分、そして人間を見る。その方法と想いこそが学問の姿であり、それなしで研究を進めても単に細かくなるだけで、大勢の人に「好き勝手にやってるだけだ」と思われるような研究に間違いなく陥ります。それは、一つ問いを解明するとまた次の問いが生じるだけで、どこまでやってもきりがなく終わりがないからです。終わりがなければ続ければ続けるほど、どんどん問題設定が細かくなり、現実から乖離したものになるのは当然のことです。しかし、大学でやる本来の研究、すなわち学問のための研究は、「役に立つor立たない」といった損得勘定を超えた味わい深さを、その成果を通じて人類に与えることができる。なぜなら、「人間をみたい」という根源的な問いが、個別の研究の背景に存在するからです。そして、それは問いそのものを客観視する目を持ち、なぜ問うのかという問いとともに研究を進める中からしか生まれないのです。
最後にきっちりと、「なぜ大学で働く研究者だけが興味・関心を突き詰めることを仕事として許されるんだろう」という問いに答えるとするなら、それは「研究ではなく学問をしている」からだということになるでしょう(続く)。