先日、私のビジョン(目標のようなもの)を書く必要にせまられました。それは、とある研究費獲得のための申請書なのですが、まず私が創出したい地球社会ビジョンを掲示し、その実現のために必要な研究の目的、計画を書きなさい、というものです。
しかし、悲しいかな、私にはキラキラと未来めいた「地球社会のビジョン」はありません。ただ、地球社会の調和のために思想的にも技術的にも必要不可欠であろう「大学」という組織についての憂い、社会にて「学問」することを許された大学こそが、逆に今その「学問」をしづらくなっている状況をなんとか元に戻したいという想いがあります。したがって、<大学にてよりしっかり「学問」ができるようになる>、これを私の地球社会の未来へのビジョンとすることになってしまうわけですが、正直言って、これはなんとも残念としかいいようがありません。
先日も、「論文数、日本は過去最低10位に」という記事が私のタイムラインを騒がせていました。以下、毎日新聞の6月14日WEB記事「論文数、日本は過去最低10位に「状況は深刻」科学技術白書」からの抜粋です。
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政府は14日、2022年版の科学技術・イノベーション白書を閣議決定した。今世紀の日本のノーベル賞受賞者数は世界2位(19人)となり「大きな存在感を示している」と評価。一方で、影響力が大きな学術論文(被引用数上位10%)の数の国別ランキングで、日本は過去最低の10位に後退し「このような状況は深刻に受け止めるべきだ」と危機感を示した。
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この記事を受け、研究者界隈では、研究資金配分の選択と集中による弊害や、アカデミアに競争原理を導入しても効果はマイナス等の意見交換がなされていました。私も基本的にはこれらに同意するものの、「研究者」ではなく「学者」の立場から考えてみるなら、「いったい、いつまで”論文”というものさしに頼っているのだろう」と感じます。「研究力」という単語を、研究者の論文生産能力とみなし、同時に、その質を計測するために、被引用数(他の研究者がどれだけその論文を参照したか。つまり、大勢の関心を集めているか)を用いる。このような評価軸はカウンタブルであるものの、ほんとうに「研究力」というものを論文の量的な生産能力としていいのか?質の評価指数として被引用数でいいのか?それでは今日的な評価に偏りすぎはしないか?等々の問題も伴うことを忘れてはいけません。
我々人間は自覚している以上に評価軸、ものさしに強く縛られる存在です。だからこそ、その評価軸は本当にまっとうなのか、取りこぼしてしまっている要因はないのかとたえず疑い続けることが必要なのです。
先に書いた私の研究申請書のフォームもまた、ある種の評価軸の固定化に関連しています。どの部分か、おわかりでしょうか?それは、研究というものは、何かしらの良きビジョンがまずあってその実現のために行動するもの、という図式です。これは研究の意味合いを、課題解決として捉えているからこそ生じる構図であり、「とにかく知りたいのだ」という純粋な知的探求には合致しにくい。無理にあてはめようとすると、昆虫の研究を無理やり環境問題と絡めて書いてみたり、天文の研究を宇宙産業と絡めたり、ひいては、源氏物語を今日的ジェンダー論の観点から読み解いてみたりと、少々無理やり感がある文章が生まれがちです。このことから新たな発想は生まれるかもしれませんし、作文力もつくかもしれませんが、これは研究の営みとは別のものであることは、だれの目にも明らかなはず。(続く)
*著者は今、全国の大学組織があつまって学問の在り方を考えるコンソーシアムを立ち上げる準備をしています。考えると同時に動きださないと。