連載・寄稿

《16歳からの大学論》

16歳からの大学論 学問の考え

宮野 公樹 先生

 コロナ禍における大学の意味の再確認として2つあげられます。一つは、様々なことに対応する博物学的な役割。これは単にリスクヘッジという意味合いだけでなく、人間の興味関心に限りがないのと同じように大学の守備範囲も相当広いのだという話。もう一つは、精神的支柱の役割。世間ではよく大学の研究は実質的に役に立つか/立たないかが議論されつつも、この間、著名な哲学者、歴史学者の意見がWEBや誌面で目立ったように、なんだかんだいって世間は、日常をメタな視点で原理から見つめなおすことを「学問」に求めているのだなという話です。いずれも社会からみた学問の役割ですが、逆に「学問の側」からこのパンデミックという事態がどう映るのかについて話してみます。

 冷淡すぎると思いつつもあっさりと言いますが、この事態がどう映るも何も、こういうことも起こりうる、の一言です。これは、長い歴史を見ればスペイン風邪のような事実もあった、という実経験の紹介を意味するのではありません。世界的パンデミックに限ったことではなく、有史以来、人間が未来を「読めた」ことなど一度たりともありません。なぜだかわかりませんが一方向にしか流れないこの時間なるものにおいて、未来予測など原理的には不可能です。そして、そのような原理に抗ってきたのが「科学技術」というなら、勝敗は最初から決まっていることです。明日も今日と同じように続くと慢心し、変動的な地形に固定的な暮らしを作ってきた我々に対し、幾度となく自然は再認識の機会を与えてきました。それをしかと受け止め、「日常」というものが正しく疑われた精神にとっては、その「日常」こそが最も驚くべきこととなります。これは「当たり前の日常に感謝せよ」という価値観の話ではなく、そもそも日常というものが存在することへの根源的な驚きのことについて言っているのです。なぜ「在る」のか…今自分が存在すること、それ以上に驚くことがあるでしょうか。明日、宇宙人が地球に攻めてきたとしても、学問(の精神)にとってはなんでもないことです。宇宙はこんなに広いのです。我々人間が有する知見など塵に等しく、自分が存在することを含め、全くわからないことばかりなのですから。

 無知の知、不可知への構えが「学問」にほかなりません。
 どのような学術分野であれ、学問としてそれがたどり着くのは意味や価値を超えたところの絶対的な生の形式。それを睨みつつ「今 、ここ、私」を生きるということは、正しく絶望し正しく自由であることに他なりません。ゆえに未来などは全く不安ではないのです。不安を持ちようがないのです。荻生徂徠、ソクラテスが言うように、何があろうがすべては人間がすることであり、もしくはパルメニデスの言うとおり、これまでなるようにしかならず、ならないようになったことはたったの一度もないのですから。偉人たちの言を借りて言わんとしたこの存在( = 人 生 )に対する構えは、楽観でもなければ、達観でもなく、単なる事実であり、人間の全歴史に対する誠実な姿勢なのです。

  ポスト、アフター、ウィズなどなど、世間では、そして知識人たちも躍起になって「明日」を探し、語っています。しかし、「学問」とはそれらを静観するものです。動的平衡が本然であるこの世において 、「変わる」ということが常だからです。むしろ「変わる」ことによる「変わらないこと」にこそ目を向け耳を傾けるのが「 学問 」の仕事 (本分)と言えます。だからこそ、世間は「学問」を頼ったのでした。その信頼に応えるよう、学問は学問で在り続けなければいけません、その努力を怠ってはいけません。もちろん「 今後は価値が二極化するだろう」、「仕事観が変わりいっそう量から質へと転換するだろう」といった各専門家(研究者)の意見は重要とは思いつつも、すなわち、それは本 当の意味で世間が、学問を担う大学に求めていることではなかったはずだと思う次第です。

 TVやタイムリーをウリにするWebサイト記事に学者の言葉は登場しにくいとは思うものの、やはり、世間すなわち社会が本当のところで求めている(であろうと信じる)言葉を読んでみたくて、非力をさらすこと覚悟で自分で書いてみたというのが本原稿の位置づけです。

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