連載・寄稿

《16歳からの大学論》

「論文」ってなんだっけ?

京都大学 学際融合教育研究推進センター 准教授
宮野 公樹 先生

Profile
1973年石川県生まれ。2010~14年に文部科学省研究振興局学術調査官も兼任。2011~2014年総長学事補佐。専門は学問論、大学論、政策科学。南部陽一郎研究奨励賞、日本金属学会論文賞他。著書に「研究を深める5つの問い」(講談社)など。

 「論文」という単語を聞いて「なにそれ?」という読者はあまりおられないでしょう。テレビや新聞、WEBメディアでも「・・という論文が発表されました」と当たり前に耳にし目にしますね。
 しかし世間におけるこの「論文」の扱いには、研究者として不安に思うことがあります。
 それは、あまりにも確固たるものとして扱われている点です。確かに、論文には必ず結論があります。しかしそれは、仮のもの、途中経過の報告でしかない、翌年にはそれが覆される「論文」がでるかもしれません。
 それに、異なる結論を主張する論文もあります。よくコマーシャルで、「この効果は論文にも発表された」と宣伝されていますが、論文になったことは正しいことを意味するわけじゃありません。発表、つまり掲載される学術雑誌には、掲載に際してのハードルが極めて低いものから、すごく高いものまで様々あるわけです。
 私は論文とは研究者間の手紙みたいなもの、と考えています。「私、こう思ったんだけど、どう?」と専門家コミュニティに投げかけ、それに対して「へー、こういうのも考えられるんじゃない?」とまた論文で応じる・・・こういう積み重ねの蓄積が、知見となりその学術分野の価値を高めていく。
 今、学術界では大学ファンドによる「国際卓越研究大学構想」というものが話題になっています。詳しくは説明しませんが、ようするに、ここ十年来、中央官庁がしてきたことと同じで、全国から少数の大学を選んで巨額の資金を投入するという事業です。選出する際に参考にする指標が、質の高い論文の量。その前提には、論文は他の論文に引用されるほど注目度や影響力が大きい、すなわち質が高く、たくさん引用された論文をたくさん生んでいる大学が優れているという考え方があります。
 いやはや、これはどうしたことでしょうか。論文とは手紙であると言いましたが、量やそれについて語った人が多いというのは、「活発」であるとは言えるものの「優れている」ということではないでしょう。つまり、論文は、その内容、テーマや問いこそが大事です。学問である以上、それらは普遍性を帯び、一個人の関心でありながら同時に人類にとっての関心でもなければいけません。もちろん「人類に役立つものでないとだめ」ということでは断じてありません。そのテーマ、問いはなぜ問いとして在るのか・・・これを横置きにしては絶対にだめだと言いたいのです。これが学問の根幹だからです。
 手紙の内容ではなく、活発なことを指標にするから、手紙(論文)の捏造が増えるのは当たり前です。最近日本は、世界的にみて捏造大国になりつつある。それに、手紙がいくら増えても、それが人類に何らかの影響を与えなければ全く意味ないですよね。加えて、大勢の人に読まれた手紙のほうが優れてるなんてしちゃうと、注目されやすい話題、旬のネタを扱ったものばかりが集まり、それ以外は無視され多様性が全然なくなっちゃう。
 他にも言いたいことはたくさんありますが、とにかく手紙の量を評価指標の中心に用いるのはほんとうに変です。社会において学問を許されている大学こそ、経済合理主義や操作的科学主義に基づく可視的、計量的な指標と対峙し、「もっと大事なことを忘れていませんか?」と社会に対してメッセージを発信せねばならぬのに・・・と思っているのですがいかがでしょう。(続く)

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