最近、学術界では「総合知」という単語がキーワードになっていることは、みなさまご存知でしょうか?
言い出しっぺである内閣府によると、総合知とは多様な「知」が集い新たな価値を創出する「知の活力」を生むこととされています。要は、学術界にとどまらず産業界も市民も一緒になってイノベーションを起こしましょう、社会的課題を解決しましょう、というものです。少し聞くと、越境や学際の推進がミッションである京都大学学際融合教育研究推進センターに所属する私にとって、この情勢はよきことのように思われますが、私自身はそうは感じておらず、少々懐疑的なのです。
理由の第一は、そもそも、総合でない知、個別的な知というものがありうるのかということです。今、私の目の前に缶コーヒーがありますが、これ一つとっても、様々な観点、立場からの見方、少し飛躍した言い方をすればそれぞれの「知」から成り立っている。例えば、素材や味覚、経済や流通といった、いろいろな要素から缶コーヒーを語ることができるのです。つまり、知というものはそもそも複雑な関連性の網に埋め込まれたものであり、総合知でない知などは存在しない。したがって、「これからは総合知!」という看板を掲げて何かを推進することには、ほぼ意味がないように思えるわけです。もちろん、総合知という言葉を使って言いたいことはわかります。しかし、それを推し進めるにあたり、この言葉の使用はちょっと悪手な気がしているわけです。特に、総合知の推進の中には、いわゆる理科系だけでなく、いわゆる人文系との協働も含まれているのですが、総合知という新たな言葉の安易な創出や吟味の足りない言葉の使用は、いわゆる人文系研究者にとっては言葉への配慮が少ないと感じられ、結果として彼・彼女らを遠ざけることになっていると感じます。
第二の理由は、総合知という言葉そのものではなく、目新しいワードを掲げて何かを推進しようとするその行為に疑問があるということです。総合知!総合知!と騒ぐ以前、類似の言葉として「アンダーワンルーフ」が流行っていました。一つ屋根の下でいろんな人達が集って協同するという意味ですが、最近はめったに耳にしません。「共創」という言葉もありました。これは現在でも頻繁に見かけます。様々なステークホルダーと協働して共に新たな価値を創造するという概念「Co-Creation」の日本語訳とのことですが、これも総合知との違いがわかりません。
違いがわからないと書きましたが、正直言って、総合知、アンダーワンルーフ、共創・・・
これらがどう違おうがどうでもいいことと思っています。直視すべきは、これまで目新しさを感じさせる言葉を掲げて何かを推進しようとしてきたが、全く達成されていないという事実の方です。「アンダーワンルーフという看板では達成されてなかった。では、次は総合知だ!」といったように、看板だけをつけかえて何かを推進しようとしているように見えて仕方ないのです。なぜこれまでうまく行かなかったのかという深い反省のもとにことをすすめているように思えないのです。この深い反省をしない限り、アンダーワンルーフや総合知といったように何を掲げようが、それらが意味する内容は決して達成されえないと思います。
もちろん、政策文章を読み込むとそこには反省の痕跡もありはします。しかし、そもそも根本的な「やり方」が、ここ数十年ほぼ変わっていないのですから、新しい結果を期待する方が無理だと思います。アインシュタインが言ったとされる「同じことを繰り返しながら違う結果を望むこと、それを狂気という」という言葉を思い出します。ここでいう「やり方」には審議会形式等も含まれますが、これらについては機会を改めて考えてみたいと思います。
それにしても、「イノベーション」という言葉もかなり古臭く感じるようになりました。これは善きことといって大きな間違いはないでしょう(笑)。生命科学の飛躍的進展を意味したライフ・イノベーション、環境問題を一気に解決するグリーン・イノベーション等、あれだけ騒いでいましたが、いったいなんだったのでしょうね。果たして我々は、何をしたくて何をしていたのか、そしてそれは、何をしたことになったのでしょうか・・・
こういう内省的な問いを持つことが、いや、持つこと「こそ」が、ほんとうに大事なことのように思えてしかたありません。(続く)