~Profile~
1927~2019年 医学博士。昭和29年東京大学卒業。米・英の小児病院留学。東京大学医学部教授(小児科学)、国立小児病院小児医療研究センター初代センター長、国立小児病院院長を歴任。臨時教育審議会委員、国際小児科学会会長等を務めた。東京府立第19中学校(現:都立国立高等学校)出身。
子どもについて学際的に研究し、その成果を現場の実践にも活かしてほしいと始まった子ども学。今日では多くの大学で、学部や学科等の名称にも使われています。昨年12月ご逝去された小林登先生を追悼し、生前いただいたご厚誼に感謝の念を込めながら、先生の子ども学序論を本紙60号(2005年9月27日発行)から再掲載します。
「子ども学」とは
――「子ども」について総合的に学ぶには
「子ども」は、『生物的存在』として生まれ『社会的存在』として育ちます。『生物的〜』というのは、文字通り、両親から遺伝子をもらった一個の受精卵が胎児となり、やがて新生児となって生まれてくることを言います。『社会的〜』というのは、子どもは親子や家庭という小さな社会、それを取り囲む地域・国という大きな社会、それに保育所や幼稚園、学校というその中間的な社会の中で、文化の影響を受けて、体が成長し心が発達するということです。
子どもについて、子どもの問題について何か考えてみたい、研究してみたい、あるいは将来子どもに関わる仕事をしてみたいと思った時は、まずこの2つの視点を持っておくことが大切です。それは保育・教育ばかりでなく、子どもに関係する機械・校舎、さらに都市計画などをデザインしたいと考えて、工学系を学ぼうとする人にとっても同じです。それでは、この2つの視点に沿って、子どもについて学ぶには、具体的にどんな学問、研究分野があるのか、考えてみることにしましょう。
まず私の場合ですと、自然科学の中の、自分の専門である小児科学を真っ先に思いつきます。もう少し広くとらえれば小児医療ですね。それに関連して小児保健学、栄養学、そして今の時代なら脳科学や遺伝子についての学問なども思い浮かぶでしょう。(中略)
人文科学になると、保育学、福祉学、教育学を思いつく人もいるでしょう。これらに隣接して心理学というのもあります。もう少し視野を広げれば社会学や文化人類学、さらに倫理学や哲学なども対象になってくるでしょう。(中略)
また霊長類を含む、動物に関する様々な研究分野は、人間の子どもを考えるモデルとして、この2つの側面のそれぞれに関わってくるものといえます。遺伝子で決まる行動と生態の関係は重要です。(中略)
さらに子どもの『生物的存在』、『社会的存在』という2つの側面を結びつけるには、“システム”と“情報”という考えが重要です。生命自身の、また生命をもつ社会的な存在としての人間のシステム情報論はもちろんのこと、ロボット工学などの工学系のシステム情報論は、ひいては子どもの理解に役立つものです。「子ども学」は文理融合科学なのです。(中略)
子どもについての理解をより深めよう、子どもの問題についてよりよい解決法を見出そうとするなら、今あげた様々な学問分野からできるだけたくさんの知恵を引き出し、それを一箇所に集め、照らし合わせることで、新しい知見や対処方法を導き出すことが必要です。子どもに関わる研究者、実践家が共通の場に集い、共通のテーマを決めてお互いに論じ合って、その解決に真剣に取り組むべきなのです。
私はこのような場を作るための理念、そのような研究や方法を示す理念を「子ども学」と呼んでみました。英語で言えば、(中略)「CHILD SCIENCE」ですね。そしてそれを新しい一つの学問として体系化して行きたいと考えたのです。
私と子ども学
――30年の軌跡
私がこういうことを考え始めたのは今から、約30年前でした(掲載当時)。
私の専門は小児免疫学で、東大病院、国立小児病院時代を通じて、いわゆる小児難病の研究と治療を主な仕事としてきました。同時に、医者としての役割は治療だけでなく、子どもの健全な発達を促すことでもあるという恩師の教えもあって、その頃から「母子相互作用」の研究など、育児についての科学的な研究も始めるようになったのです。
当時はちょうど、経済の発展が安定期に入り、社会全体は明るい未来を夢見て希望に満ち溢れていました。しかし、豊かな社会が実現されて行くのに合わせて、これまでになかったような問題も起こり始めました。公害、大気汚染、環境破壊…。そして子ども社会にも徐々に変化が起こり始めます。核家族化、女性の社会進出が進み、「かぎっ子」などという言葉が生まれました。都市化の波が広がり、子どもの遊び場が次々と失われて行き、少子高齢化が進み、“子どもが街から消えた”などの表現がマスコミをにぎわせるようにもなりました。熾烈な受験競争、偏差値の弊害、そしてついに校内暴力のような、社会に強いインパクトを与える問題も吹き出してきたのです。(中略)
1984年に『臨時教育審議会』という首相直属の審議会のメンバーとなった私は、改めて子育て・教育の問題に行政の立場として向き合うことになります。(中略)
同じ頃、学問・研究の世界にも変化があらわれました。20世紀、学問や研究は専門分野をどんどん深め物事を細かく分析することで、高い成果をあげてきました。しかし20世紀も次第に残り少なくなるにしたがって、これまでのそうしたやり方にも限界が見えてきました。さらに専門分野が狭められることで、かえって問題が見えにくくなっているといった指摘もなされるようになりました。問題をひたすら分析するだけでなくもう一度全体の視点から見直してみる、部分から全体へ、分析から統合へというように学問研究の方向転換も求められるようになったのです。
複雑で、これまでに前例を求めることのできない「子どもの問題」を数多く目の当たりして、誰もがこれまでの教育観、対応の仕方に限界を感じるようになったのではないでしょうか。
子どもに対しても、子どもの問題に対しても、これまでにない見方、学問研究の方法を早急に確立しなければならない、私は日増しにその思いを募らせ、国立病院を退官したら、「子ども学」の確立に全力を傾けよう、そう決心したのです。(中略)
「子ども学」の柱
――それは『優しさの科学』である
「子ども学」を学ぶということは、「子ども」について、「子どもの問題」について、様々な分野から客観的に科学的に学ぶということだけではありません。一番大事なことは、そのことを通じて子どもの体の健やかな成長、心の発達をどれだけ促すことができるか、ということです。そのためにはまず、「優しさ」というものが子どもの成長にとっては欠くことのできないものだということを知っておいてほしいと思います。
胎児や新生児の研究が進むにつれて、生物学存在としての子どもは、脳の中に心と体のプログラムを前もって備えて生まれてくることがわかってきています。胎児の指しゃぶり、産声とともに始まる呼吸は、体のプログラムに組み込まれたものです。生まれた瞬間の泣き声は、不安や恐怖を感じる心のプログラムが作動したものと考えられています。ただ、これらの働きは、それぞれの時点ではバラバラの動きにすぎません。子どもが人間として成長していくためには、生活環境の情報(文化)によって様々なプログラムが働きながら組み合わされ、知性のコントロールの下に統合されなければなりません。その際、最も大きな影響を持つ情報が「優しさ」です。さらに、「優しさ」は、発育のプログラムを作動させ、体をすくすく育てるのです。
第2次世界大戦後、イギリス、ドイツ、アメリカで行われた「情緒剥奪症候群」の研究などによって、乳幼児期に大切なのは、「感性の情報」であることが明らかにされましたが、「感性の情報」の代表が、「優しさ」なのです。
優しく育てられた子どもは心のプログラムをフルに稼動させることができ、体のプログラムも円滑に作動させることができます。優しさを感じると子どもは「生きる喜びいっぱい(joie de vivre)」の状態になります。そうなると体の消化・吸収、ホルモンの分泌、抗体産生などに関係するプログラムがフル回転し、すべての生体機能がよく働き、体の成長が促され、病気の治癒力も強まります。
「生きる喜びいっぱい」の状態を経験して育った子どもは、体のプログラムばかりでなく、心のプログラムも働かせ、しかもそれらを組み合わせていきます。そして、成長とともに、『周りの人は十分信頼に値するもの、人生は平和なものだ』という、人間に対する「基本的な信頼」(BASIC TRUST)という心のプログラムをもてるようになります。自分というものを肯定的に捉え、同時に他人も大切にするという、人間が社会の中で生きていく上で欠かせない基本的な資質が育まれて行くのです。
20世紀の初頭、スウェーデンの教育者エレン・ケイは、『20世紀は子どもの世紀にしなければならない』と語りました。しかし私たちは20世紀の終わりを、その反対の思いで迎えたのではなかったでしょうか。
(中略)皆さんの多くが「子ども学」を学び、子どもにとって優しさがいかに大切なものかを知ってもらえれば、未来の子どもたちは健やかに明るく育つに違いありません。
私達の力で、21世紀こそ、『子どもの世紀』とすることができるよう願っています。
子どもから見た世界の“今”
下の絵は、1991年から2016年にかけて、6歳から15歳の子どもを対象に、国連環境計画(UNEP)等が毎年行った「国連子供環境ポスター原画コンテスト」の応募作品。20万点以上に及ぶ全応募作品は国立民族学博物館に寄贈され、その後、総合地球環境学研究所に移管されている。絵を見ていると、昨年末に亡くなられた小林登先生のことを思い出す。20年ほど前、この子どもたちの絵をどのように活用すればいいのか相談したことがあった。記憶に残っているのは、子どもは決して未熟な大人ではなく、独自な世界を持った「人」だと思いなさいと教えられたこと。その時、子どもたちの絵は僕の宝物となったような気がした。じっくり見ていると、細かなところから描き手の思いが伝わってくる。子どもたちの絵から、大人では表せない環境問題への思いと世界観を読み取っていただければと思う。
総合地球環境学研究所教授 阿部健一
大学ジャーナル87号(2010年5月25日発行)進路のヒント:教育・子ども学特集 先生になろう!から
子どもの問題を小児神経科の立場から考える
子どもの発達は
胎児期から始まっている
教授 小西 行郎 先生
~Profile~
1947年~2019年。京都大学医学部卒業後、同大学附属病院未熟児センター助手を経て、1983年福井医科大学小児科講師、88年同大学助教授。89年より文部省(現文部科学省)在外研究員としてオランダ・フローニンゲン大学にて発達行動学を学ぶ。埼玉医科大学小児科教授を経て、2001年10月より東京女子医科大学教授。同年日本赤ちゃん学会を創設。08年10月から同志社大学赤ちゃん学研究センター教授、センター長。専門は小児神経学。『赤ちゃんと脳科学』、『赤ちゃんのからだBOOK』など著書多数。香川県立高松高等学校出身。
小学生の10人に一人に何らかの発達障害が認められると言われる中で、子どもの発達をもっと医学・医療の立場から捉えるべきだと声をあげられてきた小児神経科の小西行郎先生。さらに小林登先生とともに、工学、心理学、社会学なども加えた学際的アプローチによる「赤ちゃん研究」を目指す〝日本赤ちゃん学会〟を発足。昨年9月にお亡くなりになるまで、その理事長も務められました。また学校教育との連携や胎児の研究にも取り組むかたわら、産科・小児科との連携にも精力的に係わってこられた。小西先生の長年のご研究による知見と、将来、教育者をめざす高校生へのメッセージです。
生まれたばかりの赤ちゃんはしゃべることができません。そんな赤ちゃんは意思を主張したり周りとのコミュニケーションを、泣いたり笑ったり、見たものに手を出したりする運動によって行っています。
最近では、こうした運動はお母さんのお腹にいる胎児の間から行われていることがわかってきています。そしてそれは自分の身体の認知につながり、脳を作っているともいわれます※1。これは、ADHD(注意欠陥多動性障害)※2などの発達障害が超低出生体重児(未熟児)では健常児の5から8倍の割合で多く発生していると言われていることとも関係するのではないか、と考えています。
未熟児とふつうに生まれる子との一番の違いは、子宮内生活の長さです。胎児は動くことによって自分の体や子宮に触れ、自分の体や自分以外のものを認知するのではないかという意見がありますが、だとすると、子宮外に出た胎児は、それまで羊水の中に浮かんでいたのが外の世界の重力にさらされるわけですから、自由な運動がしにくくなり、自分の体を触ることも少なくなって自分の体を認知することが難しくなるのではないかと考えられます。さらに子宮内と違って明るさや騒音などの刺激も強くなることもあります。したがって、感覚能力の発達も違ってくる可能性がある、だから未熟児に発達障害が多く発生するのではないかというのです。
とはいうものの、胎動※3はいろいろな因子の影響を受けると言われており、また未熟児がすべて発達障害をきたすということではありません。そこで、胎児期から子どもの発達は始まっていて、発達障害はそこからきちんと見ていかないとわからないというのが最近の見解です。
そしてもう一つ大切なのは、人間は動くことによって自分を知るということ。また動くことによって他人と関わり他人を知るということです。胎児は自発的に動いて、それが触覚によってフィードバックされることで自分や他人を認知して、自分の世界を作っているのです。そのためそれができない子どもが発達障害になるというのは、ある程度納得のいく説明です※4。こうした考えは、新生児において発達障害を持つ子どもは自発運動や原始反射に異常があるとの報告とも密接に関係しているように思います。
※2 Attention Deficit/Hyperactivity Disorder.昔はLD(学習障害)なども含めてMBD(微細脳障害)と診断されていた。
※3 母胎内で胎児が動くこと、その動き。
※4 発達障害の原因はまだはっきりとはしていないが、生後1年以内の調査データから、発達障害の子どもたちに原始反射(生まれつき持っている反射の運動で多くが乳児期の間に消える)が消えない、自発運動がおかしいという結果が出ている。
まず大切なのは子どもと向き合うこと
昨年(2009年)4月から埼玉県朝霞市の「育み支援バーチャルセンター事業」で、認知心理のわかる心理士や作業療法士などと専門チームを作って、60近くある市内すべての保育園と幼稚園、小学校、中学校を訪問しています。医者が教育の中に入ったのです。
この取組でよかったのは、医療的な立場から保護者に子どもの話ができることと、認知主義的な観点から現場の先生方にアドバイスができることです。たとえば、黒板に1題だけ問題を書き出すとたちどころに解けるのに、教科書にいくつも問題が並んでいると解けない自閉症の子がいました。情報が多くて混乱してしまうのです。音読しないと情報が処理できない子もいました。それぞれに合わせた対応をすればよいのですが、経験主義的な教育現場では先生が判断を下すのも難しい。発達障害のマニュアルなどはよくありますが、すべての子に当てはまるわけではありません。なぜこの処理ができないのかがわかる医者か認知科学の専門家が、先生の隣で考えてあげることが必要なのです。そのためには認知心理ができる人、アメリカでいう神経心理士の役割を担う人も今後求められてくるでしょう。
またこの1年間で確信したのは、病院と学校では子どもの表情がまったく違うということです。友達との関係などを見ずに病院だけで診断していては、本当の子どもはわからないと思いました。すぐにMRIや脳波、血液検査あるいはチェックリストなどを用いて診断を下す医者が小児科でも増えていますが、まず大切なのは子どもをしっかりと見ること。そうしないと本当の解決にはなりません。同じように、これから保育士や幼稚園の先生、小学校の先生などを目指す人たちには、色々なチェックリストやマニュアルにとらわれずに、まず子どもと向き合うこと、子どもを観察して、子どもを信じて、子どもとコミュニケーションをとることを大切にしてほしいと思います。
最強の研究仲間、
小西行郎先生を偲ぶ
熊本大学名誉教授
三池 輝久 先生
小西先生と親しく、《眠育》という言葉の生みの親であり、長年、体内時計の混乱に伴う睡眠障害と発達障害や不登校などとの関連を指摘されてこられた熊本大学名誉教授の三池輝久先生から、追悼メッセージをいただきましたのでご紹介します。
1999年、マレーシアのペナン島で開催されたアジア・オセアニア国際小児神経学会で出会い、意気投合して以来、小西先生はそのお顔の広さと豊富な人脈で私のその後の研究に多大な影響をもたらしてくれました。
中でも忘れられないのは、小西先生共々多大な後援をいただいた元ニューウェルブランズ・ジャパン合同会社会長・葛西健蔵氏(1926〜2017年:アップリカ・チルドレンズプロダクツ株式会社創業者)との出会い。二度とお目にかかれないような豪快なお人柄でしたが、既に会長とは親しい関係にあった小西先生が、「会長の関心が深い《子どもの幸せ》は睡眠と関係がある」として、当時、乳幼児期の睡眠障害と発達障害の関係を主張し始めていた私のことを伝えてくれたようです。
小児科医としては一桁、二桁、額の違う研究費を獲得されてくるのも小西先生でした。ただ時に、その歯に衣着せない物言いによって、その本質である子どもに対する心の底からの優しさが見落とされることもあったようです。私にも似たところがあり、「お互いそれが災いしてあまり人に好かれませんね」などと話すうちに、親しみはますます深まってきたようです。
2006年、小西、榊原洋一(お茶の水女子大学名誉教授、日本子ども学会理事長)の両氏に担がれて日本小児神経学会の理事長に選ばれた私は、当時流行りのマニフェストを作るなど様々に物議を醸しました。この事から一部には、会員に様々な波紋を投げかけその調和を乱したという評価もあったようです。ただ結果的には、学会として法人化を成し遂げることができ、しかもこれは、偏に小西・榊原両先生の先見の明と精力的な活動のおかげであるにも関わらず、学会がこのことに目をつぶっているのは私には公平とは思えないのです。
2008年、熊本大学を辞した私は葛西健蔵氏のご紹介により兵庫県知事・井戸敏三氏と出会い兵庫県立リハビリテーション中央病院 子どもの睡眠と発達医療センター長として熊本を離れ神戸に赴任しました。この折にも小西先生には、何かとお心遣いをいただき、お手伝いもしていただくなど多大なお世話になりました。そして2013年、私がセンター長を辞して熊本に帰る決心をした折には、次のセンター長をお願いし、お受けいただきました。
当初は、子どもの睡眠にのめり込むほどの関心はなかったはずの小西先生でしたが、1-2年後には私以上に「眠育」推進に熱弁をふるう存在となられ、会うたびに子どもたちの生活習慣作りの重要性を熱く語り合うようになりました。いわく、「睡眠覚醒リズムを営む体内時計の形成は、胎児期に始まり、形成の未熟性、混乱は、幼小児期には発達障害的症状をもたらし、更には行き渋り、不登校、引きこもり、うつ、成人代謝病、認知症に至る問題の基盤となり得る」「だからこそ、小児科医には治療と予防の可能性があるという事実を社会に知らせていく大事な使命、仕事がある」。これが二人の共通認識であり、同時に多くの小児科医がこのことに無関心であることへの危機感にもつながってきたのです。小西先生が亡くなる数日前に病室を訪れた際も、この同じ思いを二人で握手しながら語りあいました。「先生のおかげでこの年で最後まで心底、打ち込める研究主題を見つけることができて、研究に没頭できたことは医学の臨床研究者として本当に幸せだった。先生に会えてよかった。本当にありがとう。」
小西さんこれまでありがとう。私はもう少し、君の志と共に生きている間は頑張ってみます。