
松本 紘先生
~Profile~
1942年生まれ。奈良県出身。京都大学工学部電子工学科卒業後、同大学工学研究科で電子工学を専攻。67年、同修士課程修了。京都大学工学部助手、助教授、NASA研究員、スタンフォード大学院研究員、京都大学宙空電波科学研究センター長、同大学生存権研究所所長、京大総長を歴任。
学外では、国際電波科学連合会長、地球電磁気・地球惑星圏学会会長など歴任。2007年秋の褒章 紫綬褒章受賞。
「物理ってなんだろう」
中国の『礼記』という古い書に、「大学」 という一編があります。この中に、大学に必要な八条目という有名なことばが書かれています。八条目の初めに出てくることばは「格物」。物事の理(ことわり)を理解する、という意味です。その後に続くことばが「致知」、すなわち現象を見て知識を体系化するということです。
「物理」とは、まさにこの「格物致知」なのです。「致知」は知識を深める研究の部分といえますが、物事の基本を理解することが物理であって、古い時代から、最初に必要なものだと考えられていたわけです。
物理というと、覚えなくてはいけない公式だとか、抵抗や加速度といった目に見えない概念が多くて、ややこしいイメージがあるかもしれません。でも、実際は、そもそも人間とは何か、宇宙とは何か、自分はどこから来てなぜここに存在するのか、こうした大命題を議論する上で必要な、基本的な学問の1つなのです。教科書では、ある現象はある公式で表せるという”結果”を習うかもしれませんが、その公式は、「この自然現象の仕組みはどうなっているのだろう」というところから導き出されているのです。1つの公式を覚えることが、実は世界の仕組みの1つを理解することにつながっているのだと考えるとわくわくしませんか?
木から落ちるリンゴを見て「なぜ月は落ちてこないのか」と疑問を感じたニュートンが万有引力を発見したといわれているように、物理学の出発点は、私たちの身近な日常生活にあります。仕組みを解明するために、まず物事をしっかりと観察して、それを定量的に観測し、「これとこれは関係しているかもしれない」といった実験を積み重ねて、出てきた結果を理論としてみんなにわかるようにまとめる、それが物理なのです。
21世紀、物理学が向かうのは
現代社会を見ると、20世紀はまさに「物理学の世紀」でした。物理学は、製品を生産して生活を便利にし、人々のwelfareに貢献してきました。一方、21世紀は「生命科学の世紀」といわれます。20世紀には学問になっていなかった生命科学ですが、DNA、RNAといった遺伝子レベルの世界が明らかになってきて、新しい学問の基盤を作りました。生物の細胞レベルからさらに小さな分子や原子の世界の関係はどうなっているのか、ということが学問の対象になってきたわけです。
ところでこの分子、原子レベルというのは、まさに物理化学の世界です。20世紀の間は、人間のためではあっても、モノやエネルギーなど非人間的なものを対象として、格物致知が行われてきました。それが、21世紀の生命科学では、生命、人間といったものが対象になっているのです。例えば、なくなった耳をどう再生するかを考える再生医科学など、これまでは夢物語だったことが、現実の可能性になりつつあるのです。
生命科学は、物理の世界ではありませんが、分子、原子レベルやさらに小さなナノレベルなどの、微細な物理学が反映されています。生物学は分類学的な要素が大きいので、対象とする世界はマクロなものです。物理学の対象はミクロな世界ですから、ちょうどその間のメゾスケールの部分が、生物学と物理学とをつなぐ、今後重要になってくる部分だと思います。
未来の話にはなりますが、これらがつながれば、人間の脳、心、精神についてもサイエンスの目からかなりのことが理解できるようになるかもしれません。
大きなスケールで物理学を
6回の連載では、物理学の格物の世界から、こうした生命、人間に関わるところまで、お話していきたいと思います。本当は、さらにその先に社会学、哲学などの人文科学の世界があります。先の八条目では、格物致知の後は、誠意正心、修身・・・と人の心という未科学の分野へ展開していきますが、いまやそうした分野であっても、医学・心理学・脳科学などさまざまな専門家が集まって研究を進めています。そして、脳科学のベースは神経から細胞へと物理学にも関わってくるのです。すべてがつながっているのです。ですから物理学は八条目の初めに書かれたことだけをやっていればいいのではありません。「人や社会をいかにハッピーにするか」を考えることが私たち科学者の基本だと私は考えています。エネルギー枯渇や環境問題が問題になる中、私自身、未来の人類を救うものとして「宇宙太陽発電所(SPS)」や「太陽系文明の基盤」についても研究してきました。そうした話も書いていくつもりです。
人間を中心に世界を広げて見ていくと、地城、日本、世界、地球、太陽系、銀河系、大宇宙まで広がります。逆に分解していくと、手足、細胞、分子・・・と最後に物理学の世界になっていきます。幅広くつながっている物事を見ながら、大きなスケールで物理学をとらえていきたいと思います。
※八条目: 格物, 致知, 誠意, 正心, 修身, 齐家、治国, 平天下