大学の教育・研究の今

《大学トップからの高校生へのメッセージ》

世界の慶應義塾であるために

専門性を育む「実学」と、
「人間交際」のベースとなる
リベラルアーツの拠点を目指して

長谷山 彰先生 慶應義塾長
長谷山 彰先生

~学歴~
1975年3月 慶應義塾大学法学部卒業
1979年3月 慶應義塾大学文学部卒業
1981年3月 慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了
1984年3月 慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学
1988年9月 法学博士(慶應義塾大学)学位取得

~職歴~
1994年4月~1997年3月 駿河台大学法学部教授
1997年4月~2018年3月 慶應義塾大学文学部教授
2007年4月~2009年6月 慶應義塾大学文学部長
2009年6月~2017年5月 慶應義塾常任理事
2017年5月~ 現職
専門領域:法制史・日本古代史
宮城県仙台第一高等学校出身

大学改革、大学入試改革が進む中、早稲田大学とともに“私学の雄”と称される慶應義塾大学の動向に注目が集まっています。法制史、日本古代史がご専門で、昨年5月に塾長に就任された長谷山彰先生に、慶應義塾のこれまでとこれから、大学入試改革への対応や高校生へのメッセージをうかがいました。その言葉の端々からは、慶應義塾の塾歌の歌詞にもあるように、福澤諭吉が拓いた「学びの城を承け嗣ぐ」者としての揺るぎない教育に対するビジョン、未来へのビジョンが伝わってきました。

あらためて、福澤諭吉の“実学”“半学半教”“義塾”について

慶應義塾の使命と独自性の源泉

 昨今、産業界からは、大学に対して、即戦力となる学生の育成や、すぐに使える研究成果、技術を求める声が高まっています。これは《実学》重視の風潮と言えるかもしれませんが、この実学と、慶應義塾の創設者福澤諭吉の言う実学とは少し異なります。福澤は実学を、読み書きそろばんのようにすぐに役立つものではなく、証拠・根拠に基づいて真理を明らかにすること、つまり科学(サイエンス)、言い換えれば実証的な学問と捉えています。と同時に、社会で活用されないような学問は無意味だとも言います。そして慶應の使命とは、学問を通じて、社会と関わり、貢献していくことだとしています。今は、大学の使命とは教育、研究、社会貢献だとされますが、この言葉を受け継ぐ本学では、社会貢献はあくまでも教育・研究活動を通じてなされるものとして、前二者と並列しては語りません。

 実学とともに、慶應の精神をよく表す言葉が「半学半教」です。教える者と学ぶ者との「分」(役割)を決めず、先に学んだ者が後で学ぼうとする者を教えるという意味です。そのため慶應はどのゼミでも教授と学生が喧々諤々の議論を行うなど、自由な気風に満ち溢れています。そしてそれを支えるのが、“義塾”という形です。私たちが“私学”や“私立大学”と呼ばれることに少し違和感を抱くのは、この形、その成立の経緯によるのです。

 明治時代の早い時期に慶應は経営難に陥ります。それを救ったのが卒業生をはじめ関係者による資金、労力、知恵を持ち寄る「維持会」と呼ばれる組織です。福澤も出版で得たお金や土地を義塾(維持会)に寄付し、「今日からは檀家に頼まれて寺を守る住職のつもりでやっていく」と語ったといいます。義に賛同した人たちが集まって運営していくから「義塾」、福澤の命名が秀でていたことは、今日でもイギリス人にパブリックスクールのようなものだと説明すると、とてもよく理解してもらえることで明らかです。

 慶應に限らず多くの私立大学は、このような独自の理念、精神、歴史や設立の目的を持っています。そのため最近出された、「私立大学にも3類型の考え方を」という国の方針が※1、私学関係者の間に波紋を広げています。少子化が進む中、経営難に陥る大学を出さないようにとの配慮からでしょうが、ここ30年近く、「大学は自立性、多様性を持つべき」だとしてきた方針※2とは矛盾するのではないかと受け取られています。私立大学の立場からすれば、改革の方向性としては、その多様性、自立性を高めようというものの方がのぞましい。そもそも認証評価※3も、評価基準が一律のため、各大学がそれを意識した改革に走ることで個性を発揮しにくくなっている。そこへさらに新たな枠組を示せば、大学の多様性は生まれてこないのではないでしょうか。大学全体のあり方を考えることと、私立大学のあり方を考えることとは分けて考えるべきだと思います。

※1 今春、中央教育審議会の大学分科会将来構想部会において「世界的研究・教育の拠点」「高度な教養と専門性を備えた人材の育成」「職業実践能力の養成」の3類型による大学の機能分化のたたき台が提示されたことに端を発する。

※2 設置基準の大綱化(1991年)とそれに続く国立大学の独立法人化(2004年)。

※3 2004年に始まった制度。大学による自己点検・自己評価に第三者の目を加えようというもの。

慶應義塾とグローバル化

 日本の大学のグローバル化について語るとき、慶應が取り上げられることはあまりありませんが、実はスーパーグローバル大学創成支援事業が始まる段階で、グローバル化の大きな指標ともなる、海外大学とのダブル・ディグリーの数が圧倒的に多かったのは慶應でした。私たちは今もその数を増やす努力をしていて※4、特定の地域に偏ることなく、世界の様々な国・地域の大学と、研究者や留学生の交流を進めています。

 今後はさらに、これまでのように質を優先するだけでなく、量的な拡大を図るとともに、個々の研究者レベルでの交流を、大学間の交流や包括的な協定へと高め国際的な大学連携を構築していきたいと考えています。この中には、ワシントン大学セントルイスとの研究交流のように、従来あまりなかった医学部や病院の連携も含まれます。先頃はまた、カナダのブリティッシュコロンビア大学(UBC)と、双方の医学部、病院、ライフサイエンス分野を強化するための協定を結びました。産学連携にも力を入れ、創薬など、学術研究の社会実装にも積極的に取り組もうということになっています。

※4 2013年にはジョイント・ディグリーを含めて23件、2023年には35件を目指す。ジョイント・ディグリーは一つの学位記、ダブル・ディグリーは二つの大学の学位記。

2018年4月に竣工した大学病院1号館のある信濃町キャンパス

伝統を守り、未来を先導したい

 これまで慶應は160年の長きにわたって、建学の理念に基づきその伝統を守ってきましたが、大学入試改革、大学改革が進む中で、AO入試の導入や教育の質保証、外部資金の獲得などにおいて、時代が私たちに近づいているのではないかと感じることも少なくありません。

 入試改革(下段コラム参照)はもとより、教育の質保証に関しても、慶應はもともと進級や卒業の要件が厳しいことで定評があります。また今や、世界的に大学の課題とされる教育・研究のための自己資金の充実、外部資金の獲得では、卒業生組織の強い結束を活かした寄付金募集など、関係者の間では他大学の追随を許さないとされています。

 社会のあらゆる分野に人材を輩出してきているのも大きな特徴で、守るべき伝統です。官界、政界、財界はもとより、芸能界、スポーツ界に至るまで、多くの卒業生が活躍してきました。関心の高まるオリンピックについて言えば、日本人のメダル第一号は卒業生※5ですし、これまでオリンピック・パラリンピックに延べ130人以上の選手を送り出しています。これは多様な力、総合力を培う教育を続けてきた一つの成果だと思います。

 確かに世界の大学ランキングの順位を上げるには、文系学部を縮小し、理系学部を拡大して研究者数を増やすような方法もあるかもしれません。しかし私たちとしてはあくまでも、幅広い教養と専門知識を備えたバランスのとれた人材を世に送り出したい。もちろん研究力もさらに高めなければなりません。それはリベラルアーツ教育の土台でもあり、研究力のあるリベラルアーツ大学であるためには不可欠だからです。

 グローバル化とは、ヒト・モノ・カネが国境を越えて移動することですが、大学にとってそれは、共通ルールによる標準化の進展を意味します。そこで生き残るには世界標準に適合しながら、しかも個性を発揮すること。明治150年、慶應義塾命名150年の今、日本の大学として、私立大学として、そして慶應義塾として、いかに個性を発揮していくかをあらためて考え、今後も未来を先導していきたいと思っています。

※5 熊谷一弥:1890年-1968年。福岡県大牟田市出身のテニスの選手。1920年のアントワープ五輪で男子シングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得。

高校生へのメッセージ

 教育改革、入試改革が進む今、少ない情報の中で不安になることもあるかもしれません。しかし、高校時代が、大学で専門性の高い学問を学ぶための基礎となる知識を身に付ける時期であることに変わりはありませんから、しっかりとその本分を果たしてほしいと思います。

 加えて本をたくさん読んでほしいと思います。単純に言葉の力を高めるだけではありません。一人の人間が一生の間に経験できることは限られていますが、読書はそれを補ってくれます。中でも古典に親しむことは、人類が積み重ねてきた経験、知恵を追体験し、ものの見方や視野を広げるのに役立ちます。これからは、“未知との遭遇”と言っていいほど不透明な時代と予想されます。そこで求められるのは目の前に起きている現象や課題の本質を見極める力、そしてそれを解決するための方法を考え出す創造的思考力ですが、読書はそれらを身につけるためにも大きな力になるはずです。

 もう一つ身に付けてほしい、心掛けてほしいのがコミュニケーション能力、それを高める努力です。異文化に出会ったとき、それを理解するだけでは不十分です。相互に交流を図り、衝突したときには、それを平和的に乗り越えていく。それには高いコミュニケーション能力が必要です。受験生だからといって一人で机に向かうのではなく、日頃から受験仲間や部活動の仲間と積極的に人間関係を作りあげていく、それを習慣にしてコミュニケーション能力を高めていってほしい。福澤諭吉も「世の中にもっとも大切なるものは人と人との交わりつき合いなり。これすなわち一つの学問なり」と、「人間交際(じんかんこうさい)」という言葉でこのことの大切さを説いています。 様々な変化に惑わされることなく、語学を含め、学問に必要な基礎的な力を確実に身に付け、読書を通じて先人の知恵に学ぶとともに、人間交際を怠らない。そんな高校生なら、大学に入って一段と飛躍するのは間違いないと思います。


入試改革、教育改革について語る

AO入試、センター試験

 慶應は1990年に湘南藤沢キャンパス(SFC)の総合政策学部、環境情報学部で、日本の大学で初めてAO入試をスタートさせました。昨今は実施する大学も飛躍的に増え、中にはきちんと学力を測っていないと批判されるものもあるようです。とはいえ慶應としては、受験生を多様なものさしで評価するという点で、やはりAO入試は完成度が高いと考えていて、今後、各学部ではその質をさらに高めることも含め、自立的に入試改革を進めることとしています。

 慶應はまた、私立大学として初めて大学入試センター試験に参加しました。残念ながら6年前に撤退しましたが、それは、いかに精度の高い優れた試験といえども、正解を選び出すというマークシートの形式である限り、限界があると考えたからです。

 グローバル化した社会では、正解のわからない、これまでの常識の通用しない事象が増えます。そこで求められるのは、いくつかの可能性の中から、失敗を恐れず自分の知識、経験をフルに活かして最良の答えを導き出すこと。だからこそ大学としても、これまで正しいとされてきた答えを選びだす力より、最良の答えを導き出す力、創造的思考力を入試で問いたい。そのことを通じて、それが大切であることを受験生に伝えたいのです。この点、センター試験だけでなく、これまでの大学入試全般には課題があり、それが今回の一連の改革を促した一つの要因でもあると思います。慶應としては新テストありきではありませんが、このようなメッセージが、今回の改革によって受験生に伝わることを望んでいます。

英語4技能の評価は?

 「話す」「聞く」を加えて英語4技能をバランスよく学び、総合的な語学力を養わなければならないことについて反対する人はいないはずです。ただ大学で高度な学問を学ぶための外国語の基礎としては、「読む」「書く」が大切であることに変わりありません。大学入試で「話す」「聞く」が重視されることで、高校教育の中で「読む」「書く」が少しでも手薄になると大学での学びに影響します。それぞれの大学・学部は、入学してから求められる語学力を考え、入試で何を測るのかを決めていく必要があります。上智大学が独自に試験を開発したことは、長年進めてきた国際化の推進に対する一つの回答になっていると思います。では慶應らしい英語の試験とはどういうものなのか、高校現場の意見もうかがいながら、今後の方針を早急に示していきたいと思っています。

 民間の検定試験の活用については、様々なテストを使うことで評価の公平性が保たれるのか、新たな受験料負担が経済的な格差を反映しないかなど、懸念されているポイントについて議論を深めています。拙速を避け、様々な選択肢を視野に十分に検討を重ねて答えを出していきたいと思います。

アクティブラーニングとパッシブラーニング

 アクティブラーニングについても、それが重要であることは言うまでもないと思います。一方で私は、それはパッシブラーニング、受け身の学習があって初めて活きてくるものと考えています。基礎知識を十分に身に着け、これまでの伝統への理解を深めた上で、それらを駆使して自由に討議し、自分の意見を生み出すことが大事です。研究者も、学会の状況をまったく知らずして論文を書くことはできません。先行研究、学会の通説、反対説とその理由などについて下調べをした上で、はじめてオリジナルの結論が出せる。アクティブラーニングとパッシブラーニング双方のバランスの取れた学習が必要だと思います。

記述式試験

 慶應は40年近くすべての学部で入試科目に国語を課していません。代わって小論文や記述式論述といった文章を書かせる問題を全学部で出題しています。

 私の学んだ文学部も例外ではありません。入試科目は外国語、地理歴史、小論文で、外国語の配点を高くしています。このような入試にする際、教授会では「文学部で国語の試験をしなくてもいいのか」という意見も出ました。しかし当時の学部長が、「英語ができる生徒は日本語もできる。小論文で日本語力を測るから大丈夫」と言って舵を切りました。試験の形態は、測りたい力によって変わります。日本語の能力については、何か一つのテーマについて長い文章を書いてもらうのが一番だと考えたのです。それがなければ、英文を翻訳する力も育たないという考え方です。

 最近、大学生、高校生の言語能力の低下を懸念する声が高まっています。文章を読んで理解し、自分の意見を言葉で表す能力がますます求められる中、大学がそれを入試で求めることで、高校でもそれにあわせた教育がなされていけば幸いです。簡単なことではないかもしれませんが、高校には言葉の力の育成に力を入れることを期待したいですし、入試でそれを測って評価するという慶應の方針に変わりはありません。大学入学共通テストの記述式試験も、そういう方向を目指してほしいと思います。

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