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「理系シフト」の中で、身近に科学を感じてみる――『偏差値70の自転車競技部』著者・松尾清貴氏が語るAI時代の学び(後半)

松尾清貴氏(作家)/聞き手:後藤健夫(教育ジャーナリスト)

『偏差値70の自転車競技部』刊行記念特別インタビュー(後半)

『偏差値70の自転車競技部』書影
『偏差値70の自転車競技部』

新作『偏差値70の自転車競技部』における科学と文芸の融合

後藤健夫(以下、後藤):ここからは、松尾さんの最新作『偏差値70の自転車競技部』の具体的な中身と、これからの教育について伺います。本作は、前作『偏差値70の野球部』が4冊累計で発行部数65万8000部を突破した実績をベースにしつつ、その緻密なロジックをさらに進化させた作品です。今作も第1巻「中学受験編」と第2巻「高校入学編」を2026年7月6日に同時発売し、第3巻以降は1か月毎に順次刊行するという怒涛のスケジュールを予定しています。前作とのアプローチの違い、そして前作を読んだ子どもたちからの具体的な反響について教えてください。

松尾清貴(以下、松尾):前作の野球部を執筆した14年前の時点では、まだ高校野球の現場において精神論や科学的根拠のない根性論が根強く残っていました。そこで、力学的な構造や確率論などを作品に持ち込むことで違った見方ができるのではないかと考えました。実際に野球をやっている子どもたちから「作中の技術をグラウンドで実際に試してみました」という感想も寄せられました。自分たちが身近なものだと感じてまず試してみてくれたことは、著者として素直に嬉しいことでした。

一方で、今回の題材である自転車競技(ロードレース)は、現代においてすでに極めて科学的なスポーツです。機材の空力特性の検証や、パワーメーターによる出力データの管理、科学的なトレーニングメニューの導入が最初から前提となっている世界です。したがって、精神論に対するカウンターとして科学を描くという前作の手法は通用しません。今回は、自転車競技がいかに科学的な原理に基づいて構築されているかという前提知識を持たない一般の読者に向けて、いかに身近な物理現象として気づかせるかというアプローチをとりました。

ロードバイク自体の乗車経験はなくても、日常的にママチャリに乗っている人は少なくないでしょう。自分が乗っている日常の自転車という身近な道具に、どのような力学の原理や構造が存在しているのかを、物語を通じて疑似体験してもらう形式をとっています。競技描写の正確性と客観性を担保するため、本作では自転車競技に関する著書を多数持つスポーツライターの佐藤喬氏に詳細な監修を依頼しています。

作中には数式や物理の法則も登場しますが、これらはすべて登場人物たちの対話の構成要素として配置されています。数式そのものの知識を覚えてもらうことが目的ではないため、読者はその数式自体を理解できなくても、そのまま読み飛ばしてストーリーを進めてくれれば全く問題ありません。ロジックを用いて対話をしている場の面白さや、それを実際に作中で実行したときに現れる展開のプロセスを、出来事として経験してもらうことが重要だと考えています。

また、理系要素が強く注目されがちですが、今作では作中に安部公房の文学論や、古典である『サロメ』『カリギュラ』といった文芸的なエピソードを意図的に絡めて、全体のストーリー構造を構築しています。私は、理系・文系に囚われない、全体の基礎教養の美しさを意識して執筆しています。私は作家固有の固定化された文体というものが好きではありません。小説のテキスト自体が、扱う主題や語り手のキャラクターに応じて文体を要請してくるべきだと考えているからです。そのため、同じ偏差値70シリーズであっても、前作の野球部の語り手と、今作の自転車競技部の語り手(偏差値70の海應中高を目指す真面目な小学生・康太郎)とでは、文章のタッチや思考のテンポを明確に変えています。受験や競技に対する真面目な語り口にすることで、このキャラクター独自のリアリティが生まれます。

英語習得のファクトと「身近にある環境」の決定的な重要性

後藤:本作では、言語習得をはじめとするあらゆる学びにおいて、環境がいかに決定的な役割を果たすかという重要な要素が描かれています。この点について、詳しくお聞かせください。

松尾:はい。作中で主人公の康太郎が、英語の学習について触れる場面があります。康太郎は「英語は勉強枠じゃない」と言います。なぜなら、彼のお父さんが自宅で普通に英語を喋っているのを日常的に見ていたからです。康太郎にとって、英語が自分のすぐ近くにある環境は当たり前の現実でした。だからこそ「英語を喋る人が近くにいたから自分も喋れるものだって最初から分かっていた」という認識を持っています。

この「日常の風景として身近にある」という環境要因は、能力開発や学習において極めて決定的な要因だと思います。どれほど素晴らしい学問や言語、スポーツであっても、自分の日常のなかに全く存在しなければ、自分とかけ離れた、心理的ハードルの高い「難しい勉強」に見えてしまいます。しかし、日常の生活空間の中にその対象が自然に存在していれば、過剰な抵抗感を持つことなく、それを当たり前のものとして受け入れ、自ら吸収していきます。

後藤:松尾さんご自身の英語習得に関する実体験も、その環境に基づいているのでしょうか。

松尾:私自身、アメリカのニューヨークへ行く前は、英語を全く話すことができませんでした。語学が得意だったわけでもありません。しかし、現地へ渡ってからは、自分の周りの環境がすべて英語のみで構成される状態になりました。その環境に身を置いたからこそ、必要に迫られて英語が身についていきました。

今振り返って運が良かったと思うことは、当時は円高の時期だったということです。ガソリン代も今の半分ほどで、アメリカの物価も今ほど高くはなかったため、経済的なハードルが低く、非常に海外へ行きやすい環境がありました。片道切符で現地へ渡り、周りに頼る人がいない中で、自分自身でアパートなどの住居を探して交渉するという自立的なプロセスを経験しました。海外に行くこと、生活することが当時は円高のおかげで身近であり、その環境に飛び込んだからこそ、充実した留学生活と英語の習得が可能になりました。

「英語を話せるようになってほしい」と願うのであれば、無理に勉強を強制するのではなく、日常のなかに英語が自然に存在する環境をいかに用意するかが重要です。身近にあれば、それを特別なものとはせず、自らの意志でその世界を楽しみ、進んでいく力を持っています。英語塾に通うことも、その手段のひとつかもしれないですね。

AIの時代に必要な「潜在的経験」の蓄積と文理融合

後藤:現在の高等教育政策や入試改革の動向に目を向けると、松尾さんの「知識そのものよりも、物語を通じた疑似経験や思考のプロセスを重視する」というスタンスの正しさが証明されています。私は日本経済新聞の夕刊コラム「受験のリアル<大学編>」において、現在の大学入試における形式的な志望理由書の提出や面接試験の限界を一貫して指摘しています。

生成AIの普及によって、ライティングやコーディングといった「結果としての成果物」は、AIを利用すれば誰でも高いクオリティで瞬時に出力できるようになりました。アメリカの大学でも成果物のみによる評価が成績インフレを引き起こしているという問題が論文で指摘されています。これからの時代に評価すべきは成果物のクオリティではなく、どのようなアプローチや考え方を経てその結論に達したかという「思考のプロセスそのもの」です。

世の中では文科省主導で高校生の理系志望者を5割に増やすといった定員政策が進められていますが、重要なのは大学進学の学部志向をいじることではありません。松尾さんの作品は、まさに文理融合の素養を、自然に受け入れるための最適なきっかけになります。理系の専門書や教科書を無理に読ませるのではなく、物語を通じてじわじわと力学の原理や論理的手触りを味わうことができるからです。

松尾:AIの時代にこそ、幅広い素養を求められますし、経験として得られたものがベースとして必要になります。知識を単なる情報として頭の中に蓄えるのではなく、日々の生活のなかで「潜在的な経験」を積み重ねていくことが最も大事なのではないかと思います。子どもの頃に経験したことや触れたものは、その時点では明確な知識になっていなくても、記憶の底に残ります。その後、何かの「きっかけ」によってそれらが呼び起こされたとき、初めて生きた「教養」になります。

物語を楽しみ、日常に種を仕込む

松尾:私の小説をあまり「教育的な教材」として真に受けすぎたり、何かを学ばせようと身構えて子どもに与えたりしてほしくはありません。私は子どもたちに何かを教え込もうという上から目線で小説を書いてはいませんし、そもそも私自身が高専中退など真っ当なレールの上を歩んでいない人間です。まずは純粋に、一つの面白い物語として気軽に楽しんで読んでほしいというのが作者としての第一の願いです。

楽しんで読むというプロセスのなかに、力学の原理や文芸の教養といった種は、構造的に十分な自信を持って仕込んであります。勉強も、スポーツも、語学も、すべては強制ではなく、日常のなかに身近な環境を用意し、プロセスを楽しむことから始まります。そのきっかけの種として、本作を楽しんでいただければ幸いです。

後藤:本日は、これからの時代に必要な教育の本質について、貴重なお話をありがとうございました。

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フィジカルと、科学と、青春と。文理融合小説が生まれるまで――『偏差値70の自転車競技部』著者・松尾清貴氏が語るAI時代の学び(前半)

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書籍情報

『偏差値70の自転車競技部 ステージ1 中学受験編』
著:松尾清貴/定価:803円(税込)/文庫版:336ページ
装幀:大口典子(ニマユマ)/装画:中島花野
出版社:小学館

『偏差値70の自転車競技部 ステージ2 高校入学編』
著:松尾清貴/定価:715円(税込)/文庫版:256ページ
装幀:大口典子(ニマユマ)/装画:中島花野
出版社:小学館

発売日:2026年7月6日(1、2巻同時発売)

松尾清貴さんの顔写真

作家 松尾 清貴(まつお・きよたか)さん

~Profile~

1976年、福岡県生まれ。95年、北九州工業高等専門学校中退の後、97年までNY在住。2004年小説家デビュー。2012年小学館文庫から刊行した『偏差値70の野球部』は、4冊累計で65万8000部を発行した。他の著書に『あやかしの小瓶』『エルメスの手』『真田十勇士①~⑦』『南総里見八犬伝①~③』などがある。

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