16歳からの大学論 「総合知」ってご存知?

 最近、学術界では「総合知」という単語がキーワードになっていることは、みなさまご存知でしょうか?

 言い出しっぺである内閣府によると、総合知とは多様な「知」が集い新たな価値を創出する「知の活力」を生むこととされています。要は、学術界にとどまらず産業界も市民も一緒になってイノベーションを起こしましょう、社会的課題を解決しましょう、というものです。少し聞くと、越境や学際の推進がミッションである京都大学学際融合教育研究推進センターに所属する私にとって、この情勢はよきことのように思われますが、私自身はそうは感じておらず、少々懐疑的なのです。

 理由の第一は、そもそも、総合でない知、個別的な知というものがありうるのかということです。今、私の目の前に缶コーヒーがありますが、これ一つとっても、様々な観点、立場からの見方、少し飛躍した言い方をすればそれぞれの「知」から成り立っている。例えば、素材や味覚、経済や流通といった、いろいろな要素から缶コーヒーを語ることができるのです。つまり、知というものはそもそも複雑な関連性の網に埋め込まれたものであり、総合知でない知などは存在しない。したがって、「これからは総合知!」という看板を掲げて何かを推進することには、ほぼ意味がないように思えるわけです。もちろん、総合知という言葉を使って言いたいことはわかります。しかし、それを推し進めるにあたり、この言葉の使用はちょっと悪手な気がしているわけです。特に、総合知の推進の中には、いわゆる理科系だけでなく、いわゆる人文系との協働も含まれているのですが、総合知という新たな言葉の安易な創出や吟味の足りない言葉の使用は、いわゆる人文系研究者にとっては言葉への配慮が少ないと感じられ、結果として彼・彼女らを遠ざけることになっていると感じます。

 第二の理由は、総合知という言葉そのものではなく、目新しいワードを掲げて何かを推進しようとするその行為に疑問があるということです。総合知!総合知!と騒ぐ以前、類似の言葉として「アンダーワンルーフ」が流行っていました。一つ屋根の下でいろんな人達が集って協同するという意味ですが、最近はめったに耳にしません。「共創」という言葉もありました。これは現在でも頻繁に見かけます。様々なステークホルダーと協働して共に新たな価値を創造するという概念「Co-Creation」の日本語訳とのことですが、これも総合知との違いがわかりません。

 違いがわからないと書きましたが、正直言って、総合知、アンダーワンルーフ、共創・・・

 これらがどう違おうがどうでもいいことと思っています。直視すべきは、これまで目新しさを感じさせる言葉を掲げて何かを推進しようとしてきたが、全く達成されていないという事実の方です。「アンダーワンルーフという看板では達成されてなかった。では、次は総合知だ!」といったように、看板だけをつけかえて何かを推進しようとしているように見えて仕方ないのです。なぜこれまでうまく行かなかったのかという深い反省のもとにことをすすめているように思えないのです。この深い反省をしない限り、アンダーワンルーフや総合知といったように何を掲げようが、それらが意味する内容は決して達成されえないと思います。

 もちろん、政策文章を読み込むとそこには反省の痕跡もありはします。しかし、そもそも根本的な「やり方」が、ここ数十年ほぼ変わっていないのですから、新しい結果を期待する方が無理だと思います。アインシュタインが言ったとされる「同じことを繰り返しながら違う結果を望むこと、それを狂気という」という言葉を思い出します。ここでいう「やり方」には審議会形式等も含まれますが、これらについては機会を改めて考えてみたいと思います。

 それにしても、「イノベーション」という言葉もかなり古臭く感じるようになりました。これは善きことといって大きな間違いはないでしょう(笑)。生命科学の飛躍的進展を意味したライフ・イノベーション、環境問題を一気に解決するグリーン・イノベーション等、あれだけ騒いでいましたが、いったいなんだったのでしょうね。果たして我々は、何をしたくて何をしていたのか、そしてそれは、何をしたことになったのでしょうか・・・

 こういう内省的な問いを持つことが、いや、持つこと「こそ」が、ほんとうに大事なことのように思えてしかたありません。(続く)

iGEMで待ってる

 iGEM (The international Genetically Engineered Machine competition) は、合成生物学の発展に寄与することを目的に、世界規模で開催される学生コンテストです。大会(年に一度)では、45か国以上350を超える大学の学生チームが一堂に会します。各チームは、自由な発想のもとでテーマを決め、実験を行い、その成果をプレゼンテーション、ポスターセッション、Wiki(Webページ)を通して発表し、独創性・実現性を競い合います。さらに合成生物学が抱える倫理や安全面からのさまざまな問題に対して、社会的活動も行います。

 iGEM Kyotoは、学生が責任と自主性に基づき自由に研究活動を行い、iGEMの最優秀賞を目指す京都大学の学生チームです。当チームはこれまで、マイクロプラスチックによる海洋汚染問題や、線虫によるマツ萎凋病問題を解決するプロジェクトに取り組んできました。昨年は、“FLOWEREVER”というテーマで、私たちにとって身近な存在である花の抱える諸問題に取り組みました。例えば、ウイルス感染に対しては葉から抽出した RNA から RT-LAMP 法という手法でウイルス由来の DNA を増幅し、CRISPRCas12aという配列検出システムを用いて、蛍光の有無からウイルス感染の有無を検出する手法を開発しました。

iGEM のホームページ

iGEM Kyotoのホームページ

2021年度のプロジェクトについてまとめたウェブページ(Wiki)

「人とは何か」、「自分とは何か」
その進化の始まりの謎に認知神経科学から挑む

理化学研究所 生命機能科学研究センター チームリーダー 入来 篤史 先生 化学研究所 生命機能科学研究センター チームリーダー 入来 篤史 先生

~Profile~
1986年東京医科歯科大学大学院歯学研究科修了、1986年東京医科歯科大学歯学部助手(口腔生理学講座)、1987年ロックフェラー大学(アメリカ)助手、1990年東邦大学医学部助手(生理学第一講座)、 1991年同講師、1997年同助教授、1999年東京医科歯科大学医歯学総合研究科教授(認知神経生物学)、2005年理化学研究所脳科学総合研究センターチームリーダー、 2018年理化学研究所生命機能科学センター チームリーダー、1986年歯学博士、東京医科歯科大学、1991年博士(医学)東邦大学。長野県長野高等学校出身。

ニホンザルがイモを洗うのはよく知られているが、 チンパンジーのように道具を使うことは長年ありえないとされてきた。 そんな常識を打ち破ったのが、理化学研究所の入来篤史先生。 ニホンザルも道具が使える!ことを明らかにしたのだ。 1996年の論文発表当時、関係者の中にはこれを“入来マジック”と呼ぶ人もいた。 神経生物学的な成果は、人間が言語やシンボルを使うことで 発達してきたとされる大脳の頭頂葉にも変化が見られることを発見したことだ。 ここから、人間の知性の進化の秘密の謎解きが始まる。 認知神経科学(神経生物学)を超えて、新しい学問領域を切り拓こうとされている入来先に、研究の現在から、今につながる高校での進路選択、 大学入学後のキャリア形成などをお聞きするとともに、 人間の知性の未来についての大胆な仮説までお聞きしました。


私の進路選択、研究の軌跡


初心忘るべからず

 科学に興味を持ったのは、父のアメリカ留学についてニューヨークへ行き、そこで過ごした小学校2、3年生の頃でした。当時のアメリカは世界のリーダーを育成することに力を入れ、学校では徹底的に、科学の啓蒙活動が行われていました。私は子どもながらにも、当時の日本の教育との違いに強い衝撃を受けました。

 日本に戻ってからは、歴史が好きだったこともあり、小学校の先生からは文系に進むのに向いていると言われましたが、一番の関心事は、「人とは何か」、「自分とは何か」でした。大学の進路選択時にもそれは変わらず、しかもそれを科学的に探究したいと思うようにもなっていました。そこで当時の私が出した結論は、「人間を特徴づけるのは言語だ。だから、言葉を話す器官である口の研究をしよう」というものでした。進学したのは、東京医科歯科大学の歯学科です。

 大学で本格的に研究活動を始めるまでは、勉強以外に、幼い頃に始めた弓道をはじめ、様々な活動に夢中になっていました。中学では自分の趣味のクラブを作ったり、高校ではボディビルディング、大学1年ではウインドサーフィンに夢中になり、それぞれサークルまで立ち上げたりしました。やってみたいことにはとことん挑戦したものです。

 しかし大学2年になってからは、授業、実習の合間を縫って、自主的に基礎研究にかかわる実験研究に参加するなど、研究に没頭していきます。人間を特徴づける言語、それを発する口の、さらには言葉を話す際の脳内メカニズムを解明しようと考えたのです。しかし当時は、このような研究は自然科学の手の届かないものとされていました。

 そこでとりあえず選んだ研究テーマは口の生理学、とりわけ痛覚についてでした。そんな学部時代でしたが、今思うと早熟で、発表した論文は英文だけで、原著・総説合わせ21本にもなりました。

 大学院に進んでからは、顎の運動リズムの研究、中でも咀嚼運動のメカニズムに取り組み、咀嚼のための顎のリズミカルな運動を制御する「リズム発生器」が脳幹にあることを発見しました。その後、巧みな口唇運動の学習には大脳皮質の可塑性が重要であることも解明しました。

 大学院修了後、博士研究員として勤めたアメリカの大学では、大脳皮質での記憶の長期増強(LTP)の仕組みをつき止めました。論文発表当時は強い批判に晒されましたが、現在では定説となっています。帰国後は講師として赴任した大学で、学習の神経メカニズムの研究の一環として、サルの道具使用の研究を始めます。そして、それまではチンパンジーにしかできないと言われてきた道具の使用が、ニホンザルにもできることを発見したのです。この論文も、発表当初は簡単には受け入れられませんでしたが、今では定説になっています。

 ところで道具の使用にかかわる脳神経メカニズムと言語機能のそれとは、扱う情報の性質と入力・出力の器官は違うものの共通点がたくさんあります。また両者の機能の本質を担う脳領域は重複していて、最近では、具体的な機能的相互作用があるとも報告されています。おそらく進化の過程で、両者が互いに促進しあいながら共進化してきたのは間違いない。だとすれば、私のここまでの研究は高校時代に目指した言語の研究からは遠かったかもしれませんが、この時点で、ようやく一つに集約し始めたと言えます。

研究の今とこれから


脳の進化における3つの謎を解く人間の脳はなぜこんなに大きくなったか? 

 私が今取り組んでいるのは、主に言語に着目した人間の知性の進化の研究ですが、ここには3つの大きな謎があります。一つは、ある時期における脳容量の爆発的な増加です。ホモ属出現以前にも脳は緩やかに大きくなっていましたが、今の類人猿のものとあまり変わらない一方、石器を作り始めたころから驚くほど拡大しました【下図、赤の→で示す】。これはどうして生じたのか。

「Phase transitions of brain evolution that produced human language and beyond」(Rafael Vieira Bretas、Yumiko Yamazaki 、Atsushi Iriki)に掲載の図を改編

脳の大きさだけでは説明できない知性の進化

 第二の謎は、わたしたちホモ・サピエンスの脳容量は旧人(ハイデルベルク人やネアンデルタール人)のものからそれほど拡大しておらず、むしろ縮小傾向にあるとする研究もあります。しかも、25万年前に出現したと言われているにもかかわらず、絵画や彫刻など象徴的な人工物が作られたり、道具の使用が始まったりするのは約5万年前。脳の大きさと現在につながるような人間的活動の間に、単純な対応関係が見つからないだけでなく、約20万年もの間に何が起こっていたのかも大きな謎です。

古代文明がほぼ一斉に開花したのはなぜ?

 最後の謎はもっと直近の、氷河期が終わった1万4千年前から後、狩猟・採集生活から農耕生活への転換を機に、中東、アフリカ、東アジア、南アジア、それに中米、南米と、世界各地でホモ・サピエンスの文明がほぼ一斉に勃興、開花したことです。これらの文明は多様でありながら、共通する要素もかなり多い。なぜ同時期なのか。この間、脳は大きくなっていませんし、知能に関する遺伝的変異が偶然に起きたとも考えられません。これが第三の謎です。

 これらの謎を解く鍵の一つが、ヒト固有の、いわば認知的特異性とでもいうべきものが基礎にあったとする考え方です。もう少し簡単に言うと、潜在的な能力というものを仮定するということです。ヒト固有の認知的な活動を構成する要素は、萌芽的なレベルでは他の動物種にも備わっています。事実、私たちは、実験的環境で飼育することでサルが道具を使えることを発見しました。つまり、自然環境の下では「きっかけ」がなければ能力は発揮されない。しかし能力それ自体は備わっている、「できる」けど「やらなかった」と考えるのです。

謎を解くカギ、「三元ニッチ構築」

 このような考え方を裏付けるのが「ニッチ構築」、それを三層に展開した「三元ニッチ構築」という概念です。ニッチとは、生物種が生き延びていくために必要なリソースを含む自然の中での生息環境のことで、それを自ら作っていくことがニッチ構築です。

 三元の一つは環境にかかわるニッチ、それを作っていく「環境ニッチ構築」です。ホモ属は道具を自ら作り出しましたが、道具というものには明確な《目的》があります。そのため道具が普及し始めた社会では、個体は道具の使用に順応することが求められ、それは同世代間、あるいは次の世代に徐々に共有されていきます。私はこの過程を通して、ヒト固有の志向性が発揮され加速度的に「環境ニッチ」が構築されていったのだと考えています。

 もう一つは、脳神経組織、機能にかかわる「脳神経ニッチ構築」です。新しい環境が作られていくと、それに対応して人間の脳はどんどん改変されていきます。道具を使わないサルを、道具を使うような環境に置くと、脳の頭頂葉が膨らみ、道具に適応した身体的情報処理を可能にする脳神経組織が新たに作り出されたように、です。環境に適応することによって新しい神経リソースを作る、これが「脳神経ニッチ構築」です。

 3つ目は、脳神経を使って行われる認知機能にかかわる「認知ニッチ構築」。人間は道具使用に必要な空間的な情報処理機能を担う脳神経組織も使って、抽象的な言語や、数学、社会構造などの情報処理を行っています。つまり、もともと備わっていた認知機構で新しい認知ができるようにもなる。それを私は「認知ニッチ構築」と呼びます。

 新しい認知は環境を変えます。そのことによって、脳神経機能が改変され脳が発達する。このように、3つのニッチが循環的に相互作用するようになるのが「三元ニッチ構築」、正確に言えばその第一相です。ニッチ構造を徐々に拡大するうちに、その後の新しいニッチで役立つような潜在的な能力が蓄積されていくと考えられるのです。

 ホモ・サピエンスは、道具の使用、そして三元ニッチ機構による転換期を経て、言語をはじめ特異な能力を手にし、今の知性を持つに至ったのではないか。これが現在の私の仮説です。

三元ニッチ構築の第2相については割愛してあります。知りたい方は10月に発売予定の「認知科学講座2 心と脳 5脳―環境―認知の円環に潜む人類進化の志向的駆動力――三元ニッチ構築の相転移(入來篤史・山﨑由美子)」をお読みください)

 それでは、人類の知性は今後もさらに進化を続けるのでしょうか。

 ヒントの一つにAI技術の進展が考えられます。

 これまでのヒトの進化は、脳の構造や利用できる資源など、物理学的・生物学的な制約を受けてきたと言えます。実際、私たちが知ったり考えたりできるのは、時空のほんの一握りでしかない。しかし三元ニッチ構築の深層の基本的な原理は物理的な制約は受けませんから、AIやIoTによる新しい概念空間の創造を通じて、これを突破させてくれる可能性が感じられます。これらをうまく使いこなすことができれば、物事を最小単位にまで分解して真実を追求する西洋の科学と、全体の中から曖昧さを残しながら宇宙や人間について考えようという東洋的な世界観、人間理解との融合、ひいては既存の科学の枠組みを変えることも可能ではないのか、私はそんな夢を描いています。

高校生へのメッセージ

 他人の成功談というのは、聞いていて面白いですが、鵜呑みにすべきではありません。その人が成功したのは、その人の個性やその時々に居合わせた状況などによってもたらされたもので、みなさんと条件が同じであることはまずないからです。ただ、成功談の背後にある、何らかの秘訣を見抜いて、それを役立てることはできるかもしれません。

 こうした前提を踏まえてですが、みなさんにとってやはり大事なことは、やりたいことがあればそれをしてみるということです。もちろん、私も経験しましたが、最初からやりたいことができる機会はそうありません。多くの場合、今の自分にできることの中から、最もやりたいことに近いことを選んでそこから始めるしかないのです。しかしそれで成果を出せばまわりに認められ、次に与えられる課題も増え、選択肢も増えるはずです。そしてその中にはまた、自分のやりたいことに近いことが必ずあります。

 こうした過程を繰り返していくうちに、自分がほんとうにやりたいことに次第に近づいていった、というのが私の経験です。もちろん、自分が最初にやりたいと思ったことも忘れてはいけません。

 一方で、あくまで上記の状況の中でですが、やりたいことができる環境というものも徐々に自分で作っていくしかないのではないでしょうか。すでにお話ししたように、私は若いときに人文学的な対象である言語に興味があり、そこから人というものを科学的に研究してみたいと考えました。これができるのは、今でいうところの文理融合的な研究ですね。しかし当時はそのような研究のできる大学はほとんどありませんでした。自然科学系に進めば人文学的な対象を研究できませんし、逆もまた然りです。そこで私は、今やれることをしながら、既存の科学の枠組みを自分で改定してみようという意気込みで取り組んできました。

 柔軟な発想を持てるのは若い世代のみなさんです。将来、研究者を目指すのであれ、行政やビジネスで活躍したいと思うのであれ、常に新しい分野を開拓する気概を持って、何事にも挑戦していってほしいと思います。

雑賀恵子の書評「ぼくの昆虫学の先生たちへ 」今福龍太

 「ぼくの昆虫学の先生たちへの架空書簡」といっても、ぼくこと今福龍太は昆虫学者ではない。日本の大学ばかりではなく、メキシコや米国、ブラジルなどの大学に勤務して研究してきた文化人類学者である。それも通常思い浮かべるような地域や民族などに焦点を当てた研究者とは違う。地理上も、時間軸上も、学の枠組み上も、そして思考そのものも境界を越境して自在に羽ばたいている思想家だ。

 その今福龍太は、自らを「少年!」と呼ばれると、子供時代に感じた自由な風が吹き抜ける空白の領域をいつまでも守ろうとしてきたことが認められたようで、少し誇らしく思いさえすると書き始める。さらに「昆虫少年!」といわれれば無上の喜びへと誘われる、という。そんな書き出しは、すでに六十代後半となった著者の郷愁に覆われながらも、いまなお著者の心にあるみずみずしさが噴き出すようで心地良い。少年期の純粋と無垢とがひたすら虫へと向かっていたことは、自分を消し、虫の棲む自然の中に「世界」というみずみずしい感覚を発見する至高の通過儀礼だったかもしれないと著者は捉える。まわりの自然環境があり、虫への情熱を掻き立ててくれた先生があって、ずっと変わらず身体の奥底にとどまって著者を揺さぶっているであろう昆虫少年が生まれた。

 昆虫へと、外の世界へと、少年の情熱を促した14人の先生たちに、それぞれ虫のタイトルをつけて捧げた手紙を編んだのが本書である。

 もちろん(?)アンリ・ファーブル(「ジガバチの教え」)から始まるが、チャールズ・ダーウィン(「カスリタテハの幻影」)や昆虫調査機器商の第一人者志賀夘助(「ギンヤンマの祈り」)といった人たちばかりではない。ヘルマン・ヘッセ(「クジャクヤママユの哀しみ」)、北杜夫(「聖タマオシコガネの無心」)、安部公房(「ハンミョウの流浪」)などの文学者、手塚治虫(「ユスリカの呪文」)のような漫画家もいる。直接の出会いにより、あるいは著作や標本、採集道具などを通して、今福少年の「昆虫学」を導いた人たちを、著者は先生と呼び深い尊敬を寄せる。

 手紙は、この素晴らしい先生たちとの対話であり、先生たちに触発されて昆虫に没入した少年時代との対話であり、昆虫との対話であり、昆虫によって開かれた世界との対話である。先生たちとの対話からものの見方や思考の立ち位置が浮かびあがり、少年時代との対話から今福龍太という思想家の成り立ちが示唆され、昆虫との対話から生命の不思議さについて、世界との対話からこの星に生きて在ることの意味について少しばかり考え始めることができるかもしれない。そして、この本を読むものは、多様な世界への驚きと失われゆくものへの哀惜に満ちた美しい文章に抱きしめられて、自分の中に何かが生まれるような幸福を感じられるだろう。たぶん、きっと。

 

東京都市大学 探究学習プログラム OPEN MISSION シーズン2の実施計画固まる

「探究」は、大学入試に変化をもたらすとともに、高大接続プログラムの積極的な展開も促している。国立大学では金沢大学の「KUGSプログラム」が目を引くが、私立大学においても、推薦型や総合型選抜の受け入れ枠を増やすだけではなく、高大接続改革の理念に呼応して高校生に独自のプログラムを提供する大学も出てきている。

 その一つ、東京都市大学は昨年度から、高大接続プログラム、「オープンミッション」を始めた。「オープンキャンパス」とは異なり、期間は約3か月。参加者には探究活動とその成果についてのレポート作成や発表が求められる。大学の研究施設・設備や図書館を体感しながら、大学教員やサポート学生とともに高度な探究学習に取り組むだけでなく、成果を総合型選抜などの年内入試に生かせる。そのため、入学への動機付けになるとともに志望動機を確認する手段としても注目されている。

 新年度のプログラムやスケジュールは下記の通りだが、テーマは前年度より高度化した印象があり、大学入学後の研究活動を短期間でシミュレートできる機会にもなるだろう。4月10日からホームページ上に公開されるミッション動画では、参考書籍や取り組みプロセスについても紹介があるので参考にしたい。なお、東京都市大学では、以下のように、探究をテーマにした総合型選抜を拡大している。専願制ではないことも特徴だ。また、一般選抜においても、特定の教科・科目に限定されない知識等を活用する「探究総合問題」を開発・導入しているから要チェックだ。

2022年度の様子

東京都市大学
東京都市大学は、武蔵工業大学を前身(2009年名称変更)とし、「理工学」分野を中心に「文理融合」や「学際領域」の教育・研究を積極的に行っている大学である。現在は、理工学部、建築都市デザイン学部、情報工学部、環境学部、メディア情報学部、都市生活学部、人間科学部の全7学部17学科で構成され、来年度には8学部めのデザイン・データ科学部も開設される。

16歳からの大学論 中学校向け「学問図鑑」を監修

 この度、人生で初めて監修した「世界が広がる学問図鑑」(Gakken)が発刊されます(2023年2月)。学問論を専門に持つものとして、このような「学問」の「図鑑」に関われたのは学者冥利に尽きることであり、感謝の念に堪えません。以下、図鑑に記載した「おわりに」を改編し、紹介します。

 この図鑑を作るにあたり、三つの挑戦をしました。

 一つ目は、「気になること」から研究分野と出会うしくみにしたこと。通常、「学問図鑑」という名前から想像すると、様々な研究分野が分類、羅列されていると思われるでしょうが、本書では、みなさんの「気になる」や「関心ごと」がまず先にあって、それをたどることで「自分の知りたいこと」に関連する研究分野を知ることができるという形式にしました。分野ありきではなく、気になること、知りたいことがまず先にあるというわけです。他にも、この図鑑にたくさん掲載されている楽しいイラストたちを眺めながら、「あー、自分ってこういうことに興味あるかも」と気づくことにも役立つでしょう。

 二つ目は、いわゆる理系/文系という既存の学術分野に囚われずに作ったこと。例えば、「生命とは?」という問いに関しては、科学的、生物学的な説明にとどまらず、哲学や法学の話もなされています。そもそも私たちの「問い」というものは、いわゆる理系や文系という区分けに当てはめることができないもの。あらゆる「問い」は、あらゆることがらと関係しているので、特定の専門、研究分野に収まりきらないものなのです。それが本来の「問い」の有り様(よう)なのですから。

 三つ目は、不完全な図鑑として作ったこと。この図鑑において、気になるところをたどったその先には、たかだか200字程度の説明文があるのみ。それを読んだだけで「なるほどわかった!」とはならないと思います。むしろ、その説明文は「問いかけ」の形で終わっており、その先は、読み手であるあなた自身で考えてみたり、調べてみたりして欲しいのです。そもそもほんとうの「生ける知識」とは、外から与えられるものではなく自分の内から自分自身で生み出すもの。あなたの一番大切な「問い」はあなたのものであり、あなた自身で問い続ける他ないのですから。

 ある意味、図鑑の図鑑ともいえるこの図鑑。これが、みなさんにとっての学問の扉となれば幸いと思い作りました。なお、本書はいわゆる図書本であり、主に小中学校の図書室向けのものです。ECサイトでは購入できますが、一般書店には流通しません。図鑑ですからサイズも大きいですし、値段も高めです。本誌をお読みのみなさまの目にはなかなか触れることは無いかもしれませんが、いつか、どこかで、みなさまの目にとまることを祈っております。(続く)

雑賀恵子の書評「体はゆく できるを科学する テクノロジー×身体」伊藤亜紗

 伊藤亜紗は『目の見えない人は世界をどう見ているのか』や『どもる体』『記憶する体』といった著書で、障害や病気を持った方の身体感覚を探究してきた人だ。本書によると、「できないこと」が生み出す可能性や、その体と付き合うために当事者の方が生み出す工夫に面白さを感じていたという。「できる/できない」という言葉は優劣の価値判断と結びつきがちであり、生産性だけで人を評価する能力主義的な風潮を強化したり、多様な人々を一つの物差しの上に並べる強制力がある。だからこそ、障害や病気とともに生きている方から「できないこと」の価値を教えてもらうこと、私たちの想像をはるかに超えるような体の可能性と、合理的には説明がつかないようなその人ならではの固有性というものを知ることで、こうした二分法を相対化しようとしてきたのが著者の姿勢だった。

 その著者が、「できるようになる」という出来事の不思議さや豊かさを知り、面白さに気が付く。理工系の現在進行形の研究成果を参照しながら、「テクノロジーの力を借りて何かができるようになる」という経験に着目して、テクノロジーと人間の体の関係について考えたのが本書である。

 5人の別々の分野の科学者、エンジニアとの対話をそれぞれ章立てし、テクノロジーを用いて人間の体を「できるようにする」ことの実践例と、そこからの考察が展開される。手指に装着する人工筋肉とピアノ演奏(第1章)や、野球のピッチング(第2章)から見えてくるのは、「できる」ためには環境等の変化に応じてその都度やり方を柔軟に変える「変動の中の再現性」が重要であり、それを支えるテクノロジーの仕事は、初心者に対しては「正解を提示すること」、上級者に対しては「未知の探索可能性に誘い出すこと」だと著者はいう。では、科学がどうしたら人の体が行っている「変動の中の再現性」をとらえ、「未知の探索可能性に誘い出すこと」ができるのか。3章では、それを可能にする画像処理技術を用いた方法を紹介する。意識の隙をつくような「できない」から「できる」へのジャンプが起こる時に、脳にはどのような変化が起こっているのかを、リハビリの現場での応用例を紹介しながら脳科学の観点から見るのが第4章。最終章では、音を出さずに喋るなど、声のテクノロジーを通して、テクノロジーによって開かれる実際の肉体を超えた身体性や、「自分」と「自分でないもの」の境界の曖昧さ、濃淡について考えさせてくれる。

 本書で紹介される事例は、科学番組などで見たことのあるものかもしれない。そこに、人文社会学系の眼差しを差し込み、そして身体を持った科学者たちとの対話を通して思考の領域を広げるのが本書だ。身体というものについて、テクノロジーというものについて、さらには高度テクノロジーで構築されている世界での倫理のあり方についても考える方向性を示唆してくれる本書を手に、わたしたちはみずからの思索に踏み出していけるだろう。

「メタバース教育」3D仮想現実空間でアバターとなって学ぶ

中央大学・斎藤裕紀恵准教授の英語教育実践

教育界で広がるメタバース

 メタバースが注目されている。メタバースとは「メタ(超越した)+ユニバース(宇宙)」という意味で、VR(仮想現実)やAR(拡張現実)環境の中で、利用者がアバター(分身)となって自由に活動・交流できる「ネット上のもう一つの世界」だ。エンタメやゲーム分野だけでなく教育や医療、福祉などでも応用が模索されているが、教育分野での期待は特に大きい。

 話題のひとつは、東京大学工学部が2022年9月に開設した、主に工学分野について学ぶ講座からなるメタバース教育プロジェクト「メタバース工学部」。中学・高校生向けで保者や教師も参加可能の無料講座「ジュニア工学教育プログラム」(メタバースを実際に作る授業や飛行ロボットを作って飛ばす授業などがある)と、法人単位で受け付ける有料の社会人向け講座「リスキリング工学教育プログラム」(人工知能、次世代通信、起業家教育の3分野で構成)がある。高校レベルでは、オンライン学習中心の通信制高校、N高等学校・S高等学校を運営する「角川ドワンゴ学園」がメタバースを活用したプログラム「普通科プレミアム」を実施。2千本を超えるメタバース授業を用意し、入学式もメタバース空間で実施した。

 大学では、大正大学が全国の高校生と在学生がコミュニケーションを図る「大正大学バーチャルキャンパス」を、新潟医療福祉大学が「メタバース型オープンキャンパス」を開設しVR技術を使って高校生との繋がりを深めようとしている。授業や留学前教育に利用する大学も増えているが、中央大学国際情報学部の斎藤裕紀恵准教授のメタバースを活用した英語教育もそのひとつである。

わくわく感と不安軽減でモチベーションが高まり英語力がアップ

 2019年に開設された国際情報学部で外国語教育を担当する斎藤准教授。研究テーマはEdTech(Education &Technology)。メタバース教育との出会いは4年前、ネイティブ講師によるVR英語学習サービス「immerse(イマース)VR」の体験。空港やレストランなどを3D映像で再現した仮想現実空間に没入する中で、アバターを介して英会話学習を行うことは学生の集中力を高め、教育効果も上がるのではと「未来」を実感、導入を決めたそうだ。いまではImmerse社の戦略アドバイザーを務め、中央大学・斎藤裕紀恵研究室はMeta社の「XRプログラム・研究基金」から研究支援を受けて授業実践を行っている。

 2年次の後半から斎藤ゼミに配属され、メタバース空間(VR空間)による英語授業を体験した学生の一人は、最初の驚きを「ワォ!」と表現する。頭に付けたVRゴーグル・HMD(ヘッドマウントディスプレイ)によって360度三次元の空間に没入し、臨場感ある仮想現実の中で自分のアバターが食べたり着飾ったり、自由に行動できることに「勉強するという意識以前に好奇心やわくわく感がたまらず」、夢中になって取り組んだという。アバターで英語ディベートをした学生は、「自分も含め、相手の顔が直接見えない分、意見が言いやすいという感想が多かった」とアバターの効用を評価する。事前・事後のアンケートでも英語を話すことに対して、不安が軽減され自信が持てるという声が多いようだ。実際、事前事後にTOEIC©スピーキングテストを行い比較すると、事後のスコア(平均点)が10点高いという結果も得られた。「英語が使われる場面が鮮明に記憶されるから語彙の習得や長期記憶の保持、モチベーションの向上に繋がる。学生たちの間に仲間意識が生まれることにも注目している」と斎藤先生。

 1年生の1クラス20人の授業でも、スマホを前面にはさんで使う簡易版でメタバース空間を体験させている斎藤先生。ニューヨークの街並みを歩く、エベレストに登る、海の中に潜る、コンサートを聴く、あるいはSDGsの活動を見るなどといった場面を仮想的ながら体験することは教科書の内容を深く考えるきっかけにもなる。さらに、仮想空間の中で目にするものを英語で説明し、他の学生がそれを聞きながら絵を描くなどの活動にもつなげられると斎藤先生は言う。

インターンシップや大学間交流にも

 中央大学で米シリコンバレーの企業を訪問する海外留学プログラム「国際ICTインターンシップ」も担当している斎藤准教授。2021年度は、コロナ禍で学生を派遣できなかったが、2022年度は現地派遣に備え、メタバース空間を利用した事前研修を実施した。アメリカ大手IT企業のGoogle、Facebook、Microsoft、AWSの日本支社の事前訪問の他、VRを用いて英語によるディスカッションやディベート、プレゼンテーションの練習を行った。そしてこの2月、その学生たち9人が2週間にわたるシリコンバレーでのインターンシップに参加した。

 斎藤ゼミでは他に、Web会議システム「Zoom」を使いアメリカの大学と国際言語文化交流をこれまで行っているが、2023年からはメタバース空間を利用することを計画している。仮想空間に大学のキャンパスを360度の動画で再現し、そこでの両大学の学生の交流を様々な問題解決型のプロジェクトに発展させようというもので、海外大学との連携が一層身近なものになりそうだ。

メタバースによって学習スタイルは大きく変化するか?

 学習スタイルへの影響も見逃せないと斎藤先生。スマートフォンやタブレットの普及によって、授業で紙のノートに字を書かず、スマホで講義スライドを写したり、スライドデータに検索タグを入力したりして「ノートを取る」学生は増えているという。メタバース空間ではいまのところノートは取りにくいが、授業の大切な部分をメモしたり感想を音声で入れたり、振り返り用検索タグなどを残したりはできる。また調べ物をし、シミュレーションし、発表し、議論し、交流することも可能だ。今後の技術革新いかんでは、メタバース空間がさまざまな情報を集積できるスマホ同様、「外部脳」になると予測する学生や研究者もいる。

 まだまだ試行錯誤の段階にあるメタバース教育だが、実践の蓄積によって教材が充実し、さらなる技術革新で導入費用が下がるとともに、学習者がめまいや頭痛を感じる“VR酔い”への対応や、個人情報保護などの体制整備が進めば、その普及に弾みがつくだろう。

第12回科学の甲子園全国大会、3月17日(金)から19日(日)まで2年ぶりにつくばで開催

 各都道府県の代表選考には668校から7870人がエントリー。2月8日には47都道府県すべての代表が出そろった。47の代表チームは下の通りで、全国大会では理科・数学・情報における複数分野の筆記競技を行い、総合点を競い合う。会場はつくば国際会議場とつくばカピオ。

第10回全国大会の様子


出場校一覧  


都道府県名 学校名

北海道   市立札幌開成中等教育学校

青森県   青森県立弘前高等学校

岩手県   岩手県立盛岡第一高等学校

宮城県   聖ウルスラ学院英智高等学校

秋田県   秋田県立秋田高等学校

山形県   山形県立酒田東高等学校

福島県   福島県立福島高等学校

茨城県   茨城県立並木中等教育学校

栃木県   栃木県立宇都宮高等学校

群馬県   群馬県立前橋女子高等学校

埼玉県   埼玉県立大宮高等学校

千葉県   千葉県立東葛飾高等学校

東京都   東京都立武蔵高等学校

神奈川県  栄光学園高等学校

新潟県   新潟県立新潟高等学校

富山県   富山県立富山中部高等学校

石川県   石川県立金沢二水高等学校

福井県   福井県立高志高等学校

山梨県   山梨県立甲府南高等学校

長野県   長野県屋代高等学校

岐阜県   岐阜県立岐阜高等学校

静岡県   静岡県立浜松北高等学校

愛知県   海陽中等教育学校

三重県   三重県立四日市高等学校

滋賀県   滋賀県立膳所高等学校

京都府   京都市立西京高等学校

大阪府   大阪府立北野高等学校

兵庫県   白陵高等学校

奈良県   東大寺学園高等学校

和歌山県  智辯学園和歌山高等学校

鳥取県   鳥取県立米子東高等学校

島根県   島根県立松江北高等学校

岡山県   岡山県立倉敷天城高等学校

広島県   広島県立広島叡智学園高等学校

山口県   山口県立山口高等学校

徳島県   徳島市立高等学校

香川県   香川県立丸亀高等学校

愛媛県   愛光高等学校

高知県   高知学芸高等学校

福岡県   久留米大学附設高等学校

佐賀県   佐賀県立唐津東高等学校

長崎県   長崎県立長崎西高等学校

熊本県   真和高等学校

大分県   大分東明高等学校

宮崎県   宮崎県立宮崎西高等学校

鹿児島県  ラ・サール高等学校

沖縄県   沖縄県立開邦高等学校

大学ランキングからはわからない大学の実力 第2回
官僚離れ、海外への頭脳流出。日本の将来が心配になる

Profile
1960年神奈川県生まれ。教育ジャーナリスト。朝日新聞出版「大学ランキング」編集者(1994年~)。近著に『日本の「学歴」』(朝日新聞出版 橘木俊詔氏との共著)。

 東京大卒業生の就職先、上位20社には、外資系コンサルティング会社がいくつか並んでいる。マッキンゼー・アンド・カンパニー23人(2位)、PwCコンサルティング16人(4位)、アクセンチュア9人(14位)、EYストラテジー・アンド・コンサルティング8人、アビームコンサルティング8人(17位)。

 東京大経済学部から経済産業省に進んだ男性がこんな話をしてくれた。

「国家公務員総合職、大手都市銀行、外資系コンサルを全部通って、マッキンゼーに行く友人がいました。彼は成績がトップクラスで財務省に行くのではと思われたのですが、自分の力を試したかったのでしょう」。

 同大学法学部教授がこう話す。

「もっとも優秀な学生は法科大学院に進まず予備試験を受けて法曹に進む。その次に優秀なのは官僚になる、勉強好きなのは大学院に進む。これは2010年代前半まで。いま、法学部一の秀才がマッキンゼーに行きたい、と言いだしている。官僚志望は成績が二番手三番手クラスです」

 東京大の学生が進路を語る際、「外資系コンサル」があこがれの対象として話題にのぼるようだ。こんな具合に。

 日本の伝統的な企業と違って、終身雇用や年功序列はなく実力本位で責任ある仕事を任される。担当した企業が業績を伸ばせば、コンサルタントとしての能力を高く評価され、日本企業につとめる同年代よりも高給が保証される。20代で課長、部長職となり、年収、「1000万円プレーヤー」にすぐなれる―――。

 なるほど、「外資系コンサル」神話は広まっているようだ。

 その背景には、官僚への不信感、不人気があるといっていい。

 東京大は官僚を送り出す高等教育機関としての機能を十二分に発揮してきた。大学の成り立ちからして、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」(帝国大学令第一令)であり、戦後4分の3世紀近く、多くの官僚を生み出してきた。各省庁において歴代、現役の幹部クラス(事務次官、局長、官房長官など)には東京大出身者が圧倒的に多い。

 ところが、2010年代半ば以降、東京大から官僚となるための国家公務員総合職試験合格者がかなり減少している。その推移は次のとおり。

 2015年459人→16年433人→17年372人→18年329人→19年307人→ 20年249人→21年362人→22年217人。

 7年前に比べて半減している。その分およそ200人のうち少なからず「外資系コンサル」に進んだことは想像できる。見方を変えると、日本政府からすれば、海外への「頭脳流出」と言えなくもない。

 なぜ、官僚離れがおきたか。

 財務省など各省庁で不祥事が続いた、政治家が繰り返す理不尽な言動の尻ぬぐいをしなければならない。国のために尽くしているはずだが社会的な評価が低く非難されることもある。その割には猛烈に忙しい、しかし給料は少ない。こんなことではやりがいを感じられない、など、官僚のあいだで不満が渦巻いているのはたしかだ。

 霞ヶ関から優秀な人材が失われるのは、国にとって一大事である。20年後、30年後、ダメな官僚ばかりにならないか。心配になってしまう。

 大学からみれば、教養、専門知識を身につけた学生がどっと海外に流出するのは、いくらグローバル化を掲げているとはいえ、もろ手をあげて賛成というわけではなかろう。大学は国に貢献できる、地域社会に役立つ人材を送り出したいはずだ。

 他の難関大学が気になる。早慶の「外資系コンサル」就職状況はどうか。

◆早稲田大

 アクセンチュア57人(5位)、PwCコンサルティング50人(6位)、ベイカレント・コンサルティング44人(9位)

◆慶應義塾大

 アクセンチュア88人(2位)、PwCコンサルティング83人(3位)、ベイカレント・コンサルティング47人(10位)、アビームコンサルティング37人(18位)、EYストラテジー・アンド・コンサルティング35人(20位)

 早稲田大国際教養学部(SILS)出身(2019年卒)でアクセンチュア勤務の男性はこう話す。

「SLISはグループで議論や発表するインストラクティブな議論が多くありますが、様々な背景を持つ学生が互いに協力しアウトプットする課程で、コンサルティングに必要な適応力が養われていると感じました」(「早稲田大国際教養学部案内2023」)。

 日本の大学は、長い間、政官財そして学問の世界に優れた人材を送り続けてきた。それがぐらついているように思える。競争の原理が働き、日本の企業、省庁、自治体、アカデミズムの世界が、人材受け入れ面で世界に出し抜かれるのではないか。ただでさえ少子化で若年層が減り続けている。国、社会、大学は危機感、緊張感を持つべきだと思う。

<就職先のデータ:2022年 東京大は東京大学新聞、早慶は大学ウェブサイト。慶應義塾大は大学院修了を含む>

小研究と社会を繋ぐ、その架け橋に
小水力発電と、大学発スタートアップ㈱aiESG(アイエスジー)で研究成果の社会実装を目指す

九州大学工学研究院・准教授 キーリーアレクサンダー竜太さん 九州大学工学研究院・准教授
キーリーアレクサンダー竜太さん

~Profile~
2013年九州大学21世紀プログラム卒業。2017年国際エネルギ-機関(IEA)および国連開発計画(UNDP)、京都大学特任研究員を経て、2018年京都大学大学院総合生存学館を一期生として修了、博士号(総合学術)取得。その間、糸島小水力発電株式会社創業、代表取締役。大学院修了後の2018年より、九州大学工学研究院特任助教および世界銀行東京防災ハブリサーチスペシャリストを兼任。2020年同研究院助教、2023年から現職。趣味はサーフィン。西南学院高等学校出身。

世界を変える精鋭が育つ研究・教育の場、京都大学大学院 総合生存学館。2018年に第一期生として巣立ったキーリーアレクサンダー竜太さんは、九州大学工学研究院でエネルギー技術のファイナンスと持続可能性評価などに関して研究する傍ら、2016年から糸島小水力発電株式会社の代表取締役として小水力発電の普及に尽力している。2022年には、グローバルサプライチェーンを対象に、独自開発のAIを用いて、製品・サービスの包括的なESG(Environmental, Social & Governance:社会・環境・ガバナンス(企業統治))影響評価を可視化するサービスを行う大学発スタートアップも創業した。キーリーさんに、研究内容やその成果、社会実装の難しさ、やりがいや将来展望について、大学・大学院での思い出とともにお聞きしました。あわせて将来、研究者を目指したり、その成果をもとに起業することを考えているみなさんへのメッセージもいただいています。


新年度へ向けて波乗りだ
九州大学工学研究院をのぞむ

大好きな地元、糸島市で小水力発電所を稼働

 エネルギー資源の枯渇、環境汚染、人口減少、大規模災害など、世界の都市が直面する様々な課題の解決に向けて、都市工学・経済学などからアプローチし、多面的かつ学際的に実証的な研究を行っています。具体的には、社会の持続的発展に向けて、再生可能エネルギーや水素、CO₂の回収と変換(DAC-U)システムによる再生可能エネルギー技術の社会・環境・経済への影響、人口減少が社会・経済に与える影響を評価しています。最近では、ESG投資に不可欠な諸要素の分析などにも取り組みはじめました。

 一方で、大学院時代から続けている再生可能エネルギーに関する研究で蓄積した知見を社会還元したいとの想いから、小水力発電の普及にも力を入れています。小水力発電とは文字通り小規模な水力発電で、用水路、小河川、道路脇の側溝、水道など様々な水流を利用して行う発電です※。ダムなど大規模な土木構造物を必要とせず、比較的簡単な工事で小さな水流でも発電できるのが特徴で、各種の自然エネルギーの中では大きなポテンシャルがある。開発プロセスはおおまかに、①可能性調査、②測量・基本設計、③詳細設計・着工、④運転開始の4ステップ。可能性調査から運転開始までには5、6年かかると言われています。落差による位置エネルギーを使って発電するため、最適な設置場所を見つけることが非常に重要です。また、何百メートルもの排水管が必要なため、その土地の行政の協力も不可欠。複数の行政管轄地域をまたぐ場合には、その間の意見の対立等で、時間はとられるものの事態がなかなか進展しないことも多く、大企業はあまりやりたがりません。しかし私には、ポテンシャルの大きさに加えて地元に貢献したいという強い思いもあり、自ら先陣を切って小水力発電に着手することを決めました。

 2016年に糸島小水力発電株式会社を創業、2020年2月には、流域面積約5k㎡、取水位130m、放水位65mほどの河川や用水路を利用した小水力発電所が稼働を開始。今でこそ順調に稼働していますが、ここまでくるまでは困難の連続でした。投資家、町役場(行政)、地元住民や地権者の方々との意見交換を同時並行で進め、合意形成を図る際には、交渉が難航することも多く、くやしさやもどかしさを感じることも。しかし今ではこの経験が私の大きな糧となっています。地元への恩返しということで言えば、発電から生まれる利益を地域に還元し、発電所の開発や運営を可能な限り地元の民間企業に回すことで経済効果を生むなど、微力ながら貢献できているのではないかと思います。

※全国小水力利用推進協議会では、国内では1000KW以下を小水力発電とするのが妥当で、全国では現在約550か所にあるとする。

きっかけは大学院での学びと人との出会い

 私が通った京都大学大学院総合生存学館は、分野横断的・俯瞰的視野で地球規模課題の解決に取り組む研究力育成のための専門分野を深めつつ、実践力を身に着けることができるユニークなカリキュラムに特徴があります。小水力発電所創業を大きく後押ししてくれたのが、4年次の『海外武者修行』と5年次の『Project-Based Research (PBR)』と呼ばれるプログラムです。

 海外武者修行は、海外へ出向き、そこでの社会課題解決を通して現場で活用できる知識と経験を習得するための国際実践活動です。再生可能エネルギーの研究や、世界のエネルギー情勢や開発に興味のあった私は、国際エネルギー機関(IEA)のフランス本部と国連開発計画(UNDP)のフィジー国事務所で、それぞれ半年間、京都大学特任研究員として働く機会に恵まれました。IEAで行ったエネルギー技術への投資分析は、旗艦レポートである『再生可能エネルギー中間市場報告書』に掲載され、大きな達成感を感じました。学術論文と政策立案などを目的とする文書の書き方の違いを知ると同時に、研究と実社会との間の大きなギャップに気づくこともできました。

 研究と実践的教育の集大成として、最終年度の5年次には、学生自らが研究を社会実装するためのプロジェクトを企画立案し、他機関の関係者を巻き込んでPBRを行います。私は研究と実務のギャップを埋め、社会との架け橋になりたいという想いから、糸島小水力発電株式会社の創業をPBRのテーマとし、学術的知見を実社会へ直接フィードバックできるような体制を整えたのです。登記した2016年は、まだフランスで勤務中でしたから、在フランス日本大使館で正式文書に親指で押印し提出したのは忘れられない思い出です。再生可能エネルギーの中でも小水力発電を選んだのは、大きなポテンシャルを秘めているのに開発が遅れていたこと、先輩が他県ですでに挑戦されていたこと、また2013から2014年にかけて、太陽光発電による環境問題が次々に報告されるようになったからです。

2017年、国際エネルギー機関 (IEA)にて
2018年、インドネシアの小水力発電所にて
2019年、ミャンマーのエネルギー・電力省にて

大学発のスタートアップとして、二つ目の株式会社aiESGを創業

 2022年に、九州大学主幹教授であり、国連新国富報告書DirectorやIPCC代表執筆者等を務める馬奈木俊介先生達と共に、㈱aiESGを創業しました。ESG影響を独自開発のAIで解析する(aiESG)事業です。今や、全世界で行われている投資の半分がESG投資と言われ、環境・社会・企業統治に配慮している企業であることが投資を受ける前提ともいえます。ESGを考慮した経営戦略の立案のためには企業全体、そして製品・サービスのESG影響の指標が必要不可欠です。

 しかし、現在までに企業レベルではESG指標が活発な発展を遂げている一方で、社会生活を支える製品・サービスレベルのESG評価はまだ十分には進んでおらず、サプライチェーン全体でのESG評価の発展が求められていました。

 今までの製品・サービスレベルのESG評価は、限定的な環境影響評価である大気汚染やCO₂排出量評価に留まっていることがほとんどだったのです。そのため、大気汚染やCO₂排出量だけでなく水資源消費や採掘資源消費等、その他の重要な環境影響に加えて、労働環境・条件、安全と健康、人権影響、ガバナンスリスク、さらには生産コストや国内雇用創出といった社会への影響を、サプライチェーンを遡って多角的、総合的に評価する手法を構築。aiESGによる解析の結果からESG優良度に応じてCertified, Silver, Gold,Platinumという4種類のESGラベルを付与するシステムを開発しました。これが広がれば、組織全体の指標を超えて企業の主要製品やサービスを多角的・総合的に評価し、更には技術開発の段階からESGを考慮した技術開発が行われる流れが起こせるのではないかと考えています。開発には、国際的に著名な研究者や国際機関の職員などにも協力を依頼、将来的には、日本発のデファクト・スタンダード※を目指します。「数値の先に、人々のウェルビーイングを見つめる」を合言葉に、ESG投資分野を含め現代社会が直面する複雑な問題に対して、学際的なアプローチでそれらを定量化し、現実的かつ効果的な政策提言を行っていきたいと考えています。

※公的な標準化機関からの認証ではなく、市場における企業間の競争によって、業界の標準として認められるようになった規格のこと。

研究者を目指すみなさんへ 

ピンチに陥っても、チャンスを見逃さない心と時間のゆとりを

 目の前の困難や問題・課題の解決に注力する、それらに力の限りぶち当たり解決に導こうとする努力や経験はとても大切です。しかしそれがすぎると、不意に訪れるチャンスを見逃してしまいかねません。「木を見て森を見ず」のような状態に陥るのです。大学教員と水力発電株式会社の代表、そして国際機関のスペシャリストという三足の草鞋を履いていた2018から2020年までの3年間は、文字通り馬車馬のように働きましたが、中でも一年目は目の前の困難を解消することに精一杯で、訪れたチャンスに気づかなかったことが多々ありました。一つ上手くいかないことがあるとそれが全体に響き、時間に余裕がなくなり深く考えたり、研究を深堀りしたりできなくなる。なんとかこの状態を打破しようと考えたのが、「仕事が三つもあるんだから、それぞれに浮き沈みがあるのは当然。それなら起きている問題については解決できるタイミングを待ち、その間、他を伸ばしていけばいい」と気持ちを切り替える、三つの仕事を独立したものとしてではなく、一つの大きなパイの構成要素として捉え、パイ全体を少しずつ成長させていけばいい、そう思えるようになったのです。問題・課題に直面したら、仲間に相談するのもいいでしょう。ただそれにもましてチャンスを見逃さないよう、心と時間のゆとりを保っておくことがとても重要だと思います。

 気持ちの切り替えに加え、三足の草鞋を履く中で得たマルチタスキングスキルも、当時の状態を打破する後押しをしてくれました。マルチタスキングスキルとは、一つのタスクに集中しながら他のタスクの経過も追うという、複数の職務を同時に管理する能力です。 私の場合は、三足の草鞋を履きながら、複数のタスクの間で頭を切り替え、それぞれを素早く連続してこなしていく力を身につけることができました。一日中ぎっしりと会議で埋まり、集中力が途切れそうになる時もありましたが、そんな時でも集中力を精一杯維持し、いかにフローの状態を長く作ることができるかを意識することで乗り切ることができました。

父親の背中を見て研究の道に

 アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、幼少期はアメリカ・ミシガン州で過ごしました。小学校入学前に、父親が九州産業大学に赴任するのに伴い来日しました。父親の職場から比較的近い糸島市での生活は非常に楽しく、小学校も地元の公立校を選びました。その後も地元の中学・高校で6年間過ごし、九州大学へは21世紀プログラムの9期生として入学しました。専門分野である環境経済学だけではなく、幅広い学問を積極的に学びました。大学2年次には、生まれ故郷のミシガンで学びたいと、交換留学制度を利用しミシガン大学で学びGlobal Scholars Programを修了。大きな一つの寮で他の学生と一緒に生活する中で、専門や人種、考え方の違う仲間の多様性を受け入れる訓練ができたと思います。

 幼少期から父親の存在は大きく、大学入学後にはごく自然に大学の教員を目指すようになっていました。「父親のように好きなことを仕事にし、思いっきり働くと同時に、休日にはサーフィンなど趣味を楽しみ、プライベートも充実させたい」。20以上の言語を苦も無く話し、異文化経営学をとことん研究する姿は、研究者の先輩としてもおおいに尊敬できます。大学院進学では、アメリカへと考えていましたが、4年生の時に先輩から京都大学大学院総合生存学館の話を聞いて進路を変えました。

世界を変える精鋭が育つ研究・教育の場、京都大学大学院総合生存学館(思修館)

 京都大学大学院総合生存学館は、《総合生存学》を学ぶ5年一貫制博士課程で、2013年に世界で通用する新しい大学院の形をリードすべく開設された。総合生存学とは人類と地球社会の生存を基軸に、文理融合のアプローチで社会課題の解決をめざす総合的な学問。教員と学生がともに創造する新しい学問分野でもあります。

 総合生存学館が目指すのは、俯瞰的な視野および論理的な思考力と堅固な意志力を携え、環境問題や人口増加、パンデミックなどの地球規模課題に対し解決策を見いだすことのできる博士人材の輩出です。大学院の初期段階から、例えば「熟議」や「サービスラーニング」といった科目を通して、社会貢献、社会に対する自身の役割について未来像を描き、そのために必要な分野についての知識や方法論を学びます。また、1年次から計画的に体系だった文理融合研究を進めることで、 博士論文の構想を早くから温め、一部の時間を「海外武者修行」や、研究成果の社会実装を体験するPBRに充てることができます。専任教員によるテーラーメイドの履修指導や、「合宿型研修施設」で異文化および異分野出身の学生と5年間にわたる共同生活を行うことも大きな特徴です。詳細は学館HPで。

https://www.gsais.kyoto-u.ac.jp/

16歳からの大学論 学問の考え

 コロナ禍における大学の意味の再確認として2つあげられます。一つは、様々なことに対応する博物学的な役割。これは単にリスクヘッジという意味合いだけでなく、人間の興味関心に限りがないのと同じように大学の守備範囲も相当広いのだという話。もう一つは、精神的支柱の役割。世間ではよく大学の研究は実質的に役に立つか/立たないかが議論されつつも、この間、著名な哲学者、歴史学者の意見がWEBや誌面で目立ったように、なんだかんだいって世間は、日常をメタな視点で原理から見つめなおすことを「学問」に求めているのだなという話です。いずれも社会からみた学問の役割ですが、逆に「学問の側」からこのパンデミックという事態がどう映るのかについて話してみます。

 冷淡すぎると思いつつもあっさりと言いますが、この事態がどう映るも何も、こういうことも起こりうる、の一言です。これは、長い歴史を見ればスペイン風邪のような事実もあった、という実経験の紹介を意味するのではありません。世界的パンデミックに限ったことではなく、有史以来、人間が未来を「読めた」ことなど一度たりともありません。なぜだかわかりませんが一方向にしか流れないこの時間なるものにおいて、未来予測など原理的には不可能です。そして、そのような原理に抗ってきたのが「科学技術」というなら、勝敗は最初から決まっていることです。明日も今日と同じように続くと慢心し、変動的な地形に固定的な暮らしを作ってきた我々に対し、幾度となく自然は再認識の機会を与えてきました。それをしかと受け止め、「日常」というものが正しく疑われた精神にとっては、その「日常」こそが最も驚くべきこととなります。これは「当たり前の日常に感謝せよ」という価値観の話ではなく、そもそも日常というものが存在することへの根源的な驚きのことについて言っているのです。なぜ「在る」のか…今自分が存在すること、それ以上に驚くことがあるでしょうか。明日、宇宙人が地球に攻めてきたとしても、学問(の精神)にとってはなんでもないことです。宇宙はこんなに広いのです。我々人間が有する知見など塵に等しく、自分が存在することを含め、全くわからないことばかりなのですから。

 無知の知、不可知への構えが「学問」にほかなりません。
 どのような学術分野であれ、学問としてそれがたどり着くのは意味や価値を超えたところの絶対的な生の形式。それを睨みつつ「今 、ここ、私」を生きるということは、正しく絶望し正しく自由であることに他なりません。ゆえに未来などは全く不安ではないのです。不安を持ちようがないのです。荻生徂徠、ソクラテスが言うように、何があろうがすべては人間がすることであり、もしくはパルメニデスの言うとおり、これまでなるようにしかならず、ならないようになったことはたったの一度もないのですから。偉人たちの言を借りて言わんとしたこの存在( = 人 生 )に対する構えは、楽観でもなければ、達観でもなく、単なる事実であり、人間の全歴史に対する誠実な姿勢なのです。

  ポスト、アフター、ウィズなどなど、世間では、そして知識人たちも躍起になって「明日」を探し、語っています。しかし、「学問」とはそれらを静観するものです。動的平衡が本然であるこの世において 、「変わる」ということが常だからです。むしろ「変わる」ことによる「変わらないこと」にこそ目を向け耳を傾けるのが「 学問 」の仕事 (本分)と言えます。だからこそ、世間は「学問」を頼ったのでした。その信頼に応えるよう、学問は学問で在り続けなければいけません、その努力を怠ってはいけません。もちろん「 今後は価値が二極化するだろう」、「仕事観が変わりいっそう量から質へと転換するだろう」といった各専門家(研究者)の意見は重要とは思いつつも、すなわち、それは本 当の意味で世間が、学問を担う大学に求めていることではなかったはずだと思う次第です。

 TVやタイムリーをウリにするWebサイト記事に学者の言葉は登場しにくいとは思うものの、やはり、世間すなわち社会が本当のところで求めている(であろうと信じる)言葉を読んでみたくて、非力をさらすこと覚悟で自分で書いてみたというのが本原稿の位置づけです。

16歳からの大学論 やりたいことが見つからない理由

 今年2月に上梓した拙書「問いの立て方」(ちくま新書)が既に第三刷になったと出版社より連絡をうけました。さらに、ニュースサイト「NewsPicks」にて書籍紹介がなされ(それがどのくらいのことかよくわかりませんが)、2000Picks以上の評価を頂いたとのこと。ありがたいことです。感謝を込めて、本紙読者の方々に関係ありそうな部分を本書より抜き出し、掲載させていただきます。ご笑覧いただければ幸いです。


●やりたいことが見つからない理由
 「何がやりたいかわからない、研究テーマを決められない」という方もまれにおられるでしょう。こんな私のところにも、そのような博士後期課程の学生が訪ねてくることもありますし、研究に限らず、もしかしたら求職中の方も類似した問いをお持ちかもしれません。
• なんでもやってみろ、試してみろ。そうすれば何かが見つかる。
• いったんやりたいこと探しをやめて旅にでもでたらどうだ。
• とにかく本を読め、本屋に行って手当り次第に関心ある本を買え。
• 他人と話しまくれ、誰かに相談しろ。
• 瞑想しろ。
 このように、世間ではいろんな「自分探し」、「やりたいこと探し」の方法があり、人によってアドバイスもそれぞれ違うでしょう。本書では何かこれという方法を具体的に書くことはできませんが、この第一章の考えをもって考えるなら、やはりまず「私はなぜそのように思うのか」といった「やりたいことが見つからない、その理由や前提」である観念を探る仕方で考えることから始まるのではないでしょうか。自分はなぜそう感じているのか、内なるもう一つの目をもって、自身の意見、感情、感覚の理由をこそ探索し始めるでしょう。


 続いて、その時代性についても思考をめぐらせます。例えば、やりたいことができるというようになったのはここ100年ほどのことで昔は生まれ落ちた場所や家に依存してほぼ人生が定められていたのだ、というふうに。ここで、昔より今がいいという思い込みを持たないことが肝要です。正しく歴史を見るなら、その時代その時代の心持ちというものがあり、例えば、就職が自由にできなかった時代にはその時代の覚悟や趣が間違いなく存在し、現代と同じように人の幸・不幸があったことでしょう。他国に生まれ落ちた場合を想像するのもいいかもしれません。そう、つまるところ幸・不幸の内容は時代や地域によるが、その形式は不変ということです。


 自分の願い、願望というものは、考えてみれば自分を超えたところにあるのかもしれない・・・


 そのような気分になったのなら、それは存在論に触れていることになります。そもそもやりたいことがあるということがそのまま幸せとも限りません。それに、得てしてやりたいことに没頭している人たちも、結果的にそれに落ち着いただけであって探そうとして見つけたとは限りません。このように存在について考えれば、自ずと(物的に)やりたいことを探そうとするのではなく、(心的に)自身の有りよう、幸せとは何かに問いが深まっていくのだと思います。


 哲学者・鷲田清一先生は、読売新聞の「人生案内」にて、何がやりたいかわからない人に対して、まず、自分がやりたいことじゃなく、誰かのために何ができるかを考えてみたらどうかと話されていました。これも一種の無私じゃないだろうかと思い、深く同意するところです。
(「問いの立て方」ちくま新書 第一章 p.94-96.)

16歳からの大学論 筆者、ついにSTEAM Associationを旗揚げ!「無知の知」の体現こそ

 今年7月に一般社団法人「STEAM Association」を設立しました。この社団では「ほんとうの学び」をコア・コンセプトにした、学び合いの場を作るのがねらいです。


 今日、「学ぶ」という行為には目的が無いとダメみたいな感じになってます。例えば、昇進や、資格や単位取得のためであったりと、今、この時代を生きる我々は、「学ぶことが何かを得ること、新たに何かを身につけること」、というようについつい考えがちになってる。しかし、「学び」には、特段の目的はいらないって私は思います。もちろん、自分の成長やスキルUPも大事ではありますが、それらを超えたところで、自分自身の感覚や感情を芯にして学ぶってことが、最近忘れられてるように感じるわけです。


 言いたいのは、「学ぶ」っていうのは、本来、おいしい、たのしい、うれしいなどと同じ我々の深い部分に根付く喜びの感覚である、ということ。この人間の純な本性としての学び(=これは目的に先立つので、「ほんとうの学び」と呼ぶことにします)を通じてこそ、人は、自分の在りように気づくのだと思うのです。何かを獲得するための学びを外向きとするなら、ほんとうの学びは内向き。「あぁ、私は、これが好きなんだ」「私が関心もつ事柄って、根っこにこういう共通点があったんだ」「当時、知りたい!って思っていたこと、今はそこまででない。なぜだろう」といったようにです。


 今日、金持ちゲームも、学歴ゲームも、大企業就職ゲームもだんだん終わりを迎えているといってよく、DXの進展もあいまって、いっそう「予測不能のなんでもあり社会」を迎え、結局、我々って何がしたかったんだっけ?っていう問いが見直されてると思うんですよね。そういう今こそ、先に述べた「ほんとうの学び(=自分の在りよう)」が必要と思うのです。


 そして、この社団では、このほんとうの学びの柱の一つに「STEAM」を置くことにしました。STEAMとは、Science、Technology、Engineering、Art、Mathematicsの頭文字で、現在、「STEAM教育」というのは、世界各国において分野融合型かつクリエイティブな理工系人材を育成する目的の下に推進されています。しかし、この社団法人は、我が国のSTEAMを振興します!といった考えは持っていません。なぜなら、今、STEAM!STEAM!と叫んでいても、時代が変われば、BEYOND-STEAM、とか、Next-STEAMなんて言いだすかもしれませんでしょ?


 この社団法人では、あくまで「STEAM」は入り口とし、既存のSTEAM教育をさらにもう一回り広く深く捉え直して社会に問うことをねらいとし、「そもそもSTEAMとは何か。いやむしろ、STEAMなるものを掲げて何を推進しようとしているのか?」といった俯瞰的で根源的な思考を何より重視します。つまり、STEAMというキーワードの登場を、「科学技術と人類の関係についての新たな考え方を得る契機」として受け止め、歴史や哲学など人文・社会科学系の観点を含め、STEAMのAをリベラルアーツのAとして強調し、STEAMという概念を問い直したいんです。


 まず最初は、我が国の研究者を対象とした事業を展開していく予定です。読者の方でご関心のある方は一般社団法人STEAM Associationで検索を。

16歳からの大学論 問いとディスカッションに、学びを作品に

 2022年1月末に、学問の〈根・音・ね〉– 学術、芸術、伝統文化の百花争乱–というタイトルで企画を実施しました。これは、KYOTOSTEAM–世界文化交流祭–という京都市らの事業の一つとして開催したものです。活動分野の異なるメンバーが、対話を重ねながら、それぞれの専門分野の原点にある「問い」から現在に至るまでの歴史と、その連鎖を仮想空間で可視化することを試みるプロジェクトで、その道のりで製作したVRによるアート作品の公開・体験と、参画者でこれまでのことを話し合う公開振返り会を実施しました。


 なんといっても、そのメンバーのラインナップがすごい。現代美術家、表千家茶道講師、小説家、庭師、医師・薬剤師、映像作家、生命誌研究者、画家・美術家、禅宗僧侶といった顔ぶれ。通常、ほぼ初対面の多分野・多業種が集まって、わずか半年たらずでなにか一つの作品を作ることはありませんが、今回はそれをやってのけました。製作過程ではどんな対話がなされたか、最終的にどんな作品を作ったかについては、まもなくWEBサイトで公開されますので、関心がある方は、京都大学学際融合教育研究推進センターのホームページやSNS(TiwtterID@Cpier_Kyoto_u)をフォローして下さい。


 今振り返ってよかったと思うのは、作品づくりを焦らなかったこと。事前打ち合わせは、全員リモートで合計5回ほどしかできませんでしたが、これをあえて「勉強会」と称し、作品づくりではなく学ぶために集まっているのだという自覚をお互いに高めました。開催の前には毎回、最終作品につながるかどうかわからないような「お題」―例えば、「今のあなたがあるのは、どのような《問い》の連鎖の結果でしょうか?」といったような―が必ず与えられ、各自、それを発表するかたわら、Slackでも意見交換を続けました。アーティスト、宗教家、茶道家、庭師などの、その直感の速さたるや、光の如し。普段、研究者とのディスカッションばかりの私にとってはとても刺激的で、真正面から「問い」と対峙する感受性は、面倒な手続きなしにダイレクトに本質へと突き進みました。


 あとは、最終作品である「問いの連鎖」の具現化だけ。本番2ヶ月前には、VRのプロが加わり試行錯誤の末、作品づくりの土俵(環境)が与えられました。思った以上に簡素で、このVR空間で創り出したものが果たしてアートと呼べるのかと悩みましたが、それはすぐにうち消されました。なぜなら、アートとは魂を吹き込むことに他ならず、この勉強会では、まさにそのことに必死に取り組んできたからです。もちろん各メンバーのこの企画に対する関わり方や想いは異なります。しかし、いっときでも問いを共有し、互いに悩み、形にした経験は深い学びとなり、その学びを注ぎ込めば、きっと印象深い時空になる。そう、この企画でつくったのは「作品」ではなく「学び」、このことを本番に掲示しようと考えたのでした。


 具体的には、VR作品を展示し体験するだけでなく、メンバーがどう学んでここまで来たかを時間をかけてプレゼンし、参加者も入れて、VR体験後に全員でどう学んだかを話し合いました。VR作品とパネルディスカッションが組み合わさったこの時間・空間がまるごと我々の「作品」だったのです。

16歳からの大学論 「あなたのビジョンは何?」と聞かれて

先日、私のビジョン(目標のようなもの)を書く必要にせまられました。それは、とある研究費獲得のための申請書なのですが、まず私が創出したい地球社会ビジョンを掲示し、その実現のために必要な研究の目的、計画を書きなさい、というものです。

しかし、悲しいかな、私にはキラキラと未来めいた「地球社会のビジョン」はありません。ただ、地球社会の調和のために思想的にも技術的にも必要不可欠であろう「大学」という組織についての憂い、社会にて「学問」することを許された大学こそが、逆に今その「学問」をしづらくなっている状況をなんとか元に戻したいという想いがあります。したがって、<大学にてよりしっかり「学問」ができるようになる>、これを私の地球社会の未来へのビジョンとすることになってしまうわけですが、正直言って、これはなんとも残念としかいいようがありません。

先日も、「論文数、日本は過去最低10位に」という記事が私のタイムラインを騒がせていました。以下、毎日新聞の6月14日WEB記事「論文数、日本は過去最低10位に「状況は深刻」科学技術白書」からの抜粋です。
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政府は14日、2022年版の科学技術・イノベーション白書を閣議決定した。今世紀の日本のノーベル賞受賞者数は世界2位(19人)となり「大きな存在感を示している」と評価。一方で、影響力が大きな学術論文(被引用数上位10%)の数の国別ランキングで、日本は過去最低の10位に後退し「このような状況は深刻に受け止めるべきだ」と危機感を示した。
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この記事を受け、研究者界隈では、研究資金配分の選択と集中による弊害や、アカデミアに競争原理を導入しても効果はマイナス等の意見交換がなされていました。私も基本的にはこれらに同意するものの、「研究者」ではなく「学者」の立場から考えてみるなら、「いったい、いつまで”論文”というものさしに頼っているのだろう」と感じます。「研究力」という単語を、研究者の論文生産能力とみなし、同時に、その質を計測するために、被引用数(他の研究者がどれだけその論文を参照したか。つまり、大勢の関心を集めているか)を用いる。このような評価軸はカウンタブルであるものの、ほんとうに「研究力」というものを論文の量的な生産能力としていいのか?質の評価指数として被引用数でいいのか?それでは今日的な評価に偏りすぎはしないか?等々の問題も伴うことを忘れてはいけません。

我々人間は自覚している以上に評価軸、ものさしに強く縛られる存在です。だからこそ、その評価軸は本当にまっとうなのか、取りこぼしてしまっている要因はないのかとたえず疑い続けることが必要なのです。

先に書いた私の研究申請書のフォームもまた、ある種の評価軸の固定化に関連しています。どの部分か、おわかりでしょうか?それは、研究というものは、何かしらの良きビジョンがまずあってその実現のために行動するもの、という図式です。これは研究の意味合いを、課題解決として捉えているからこそ生じる構図であり、「とにかく知りたいのだ」という純粋な知的探求には合致しにくい。無理にあてはめようとすると、昆虫の研究を無理やり環境問題と絡めて書いてみたり、天文の研究を宇宙産業と絡めたり、ひいては、源氏物語を今日的ジェンダー論の観点から読み解いてみたりと、少々無理やり感がある文章が生まれがちです。このことから新たな発想は生まれるかもしれませんし、作文力もつくかもしれませんが、これは研究の営みとは別のものであることは、だれの目にも明らかなはず。(続く)

*著者は今、全国の大学組織があつまって学問の在り方を考えるコンソーシアムを立ち上げる準備をしています。考えると同時に動きださないと。

雑賀恵子の書評「他者の靴を履く」プレディみかこ

 相手の立場に立ってその人の気持ちを考えなさい、と諭されたことはあるだろう。だが、たとえば、いじめをしている人の立場に立って、気持ちを考えて自分も同じ気持ちになったとしたら、いじめを肯定してしまうのではないか。共感するというのは、そんなことだろうか。そもそも、他人の立場に立ってものを考えることで他人を理解できるということは、他人と自分が「同じ」であり、交換可能なものであることが前提となっていなければならない。その前提は、生まれも育ちも、ものの感じ方も何もかも違う人間において、いつも成り立つとは限らない。こうしてちょっと突き詰めると、他人の気持ちに対して共感する、ということは何を意味するのかさえ分からなくなってくる。とはいえ、他人とは理解できないものだと切り捨ててしまっては、一歩も踏み出せないし、何も変わらない。


 多様な存在の集まりである社会で軋轢を少なくしながら共存していくことや、個人間でもうまくやっていくことを「他者を理解すること」から考えるとき、「共感」がキータームとして近年よく用いられるようになったが、エンパシーという言葉も耳にする。情緒的な意味に力点がかかるシンパシー=「同情」に対置するものとして、日本語ではエンパシー=「共感」としているようだ。著者は、ベストセラーとなった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』でエンパシーという言葉に注目を向けた一人である。「共感」と訳されがちなエンパシーを、英語圏でも、論者ごとに異なると言っていいほど多様な定義、意味で使われていることを解きほぐすことから始めて、多様性社会を保証するためのエンパシーを探ったのが本書である。


 著者は、貧困家庭に育ち、高卒後英国に渡り、のちに保育士の資格を取って失業者や低所得者が無料で子供を預けられる託児所で働いたり、20数年英国社会でさまざまな経験を重ねて、現在英国で翻訳やライターとしての活動をしている人だ。経済格差と多様性という二つを根底に置いて発せられる彼女のレポートや著作は、とんがっていながら、空気を求めて融通無碍に広がっており、ドライブ具合がかっこいい。


 エンパシーをめぐる本書も、様々なフィールドを縦横無尽に駆け巡る。諸議論で使われるエンパシーの語義や歴史。大逆事件で検挙され獄中死したアナキスト金子文子のエンパシー。米国の刑務所で行われる「回復共同体」プログラムのドキュメンタリー映画(坂上香監督)。SNS。ミラーニューロン理論からの脳内と共感の問題。コロナ禍によって剥き出しにされたケア階級と経済の問題。サッチャーの経済政策から見るシンパシーとエンパシー。ジェンダー…。いまここにある、この現在、この世界を剥き出しの肌が捉え、生きる足場をしっかりと確かめながら、彼女の文章はこちらに向かってまっすぐ投げられる。「異なる者たちが共生している『あいだの空間』で民主主義(すなわち、アナキズム)を立ち上げるには、エンパシーが必要だ」という彼女のボールを、どう受け止めるか。「すなわち、アナキズム」を、わたしたちも知力を傾けて読みとこう。この「わたし」の生きる足場を固め、他者と共に思いっきり呼吸のできる空間を求めるために。

雑賀恵子の書評「計算する生命」森田真生

 数学はお好きだろうか?評者は、小学校に上がる前から、すでにマイナスの概念がわかり、小学校の算数のなんとか算というのは頭の中で代数的にイメージして解き、幾何学も代数学も得意だった。そう、三角関数が出てくるまでは。というのは、微分積分での三角関数の公式が覚えられず、次々と出てくる複雑な公式をまず覚えてなければ問題が解けないところや、頭の中でイメージができないところでつまずいて凡人以下になってしまったからだ。大学では初歩的な数学の講義は取るには取ったけれども、いろいろな記号が何を意味するのか、その意味とは何かがさっぱり理解できず、諦めた。学校教育における数学は、物理学や数理経済学などに進んでいくための基礎の方法であって、数学の勉強とは問題を解くことだと片付け、以降は手を切った(というよりも数学の世界から切り捨てられた)。


 ああ、なんという間違い。計算することは、単なる技術ではないし、数学はパズルではない。古代ギリシア哲学において数学で世界を記述することが重んじられ、デカルトが座標系で代数学を発展させていったのはなぜか。それは、世界をどう認識し、どう理解していくか、ということに大きく関わっていたのである。


 本書第二章冒頭に、ジェレミー・アヴィガッドの言葉が引用されている。


 「数学の歴史は、人類がその認識の届く範囲を拡張するためにあらゆる手段を尽くしてきた歴史であり、理解する力を押し広げるために、概念や方法を設計してきた歴史だ」。


 学校教育での数学は、人間の認識とは関係ないところにある普遍的な公理や規則の体系があって、それを個別に落としていくという演繹的な教え方をされる。そうすると、数学は、閉じたものであってそこから新しい概念や世界が広がっていかないように思い込んでしまう。そうではないのだ。


 そもそも数とはなんだろう。実在の事物とは関係のない概念ではある。しかし、一方、事物を数えるということは、個別実在の身体を伴った行為だ。生物である人間が事物を認知するのには、感覚器官をもつ身体が必要だと思われるからである。著者は、30代半ば、数学をテーマに著作や講演、「数学の演奏会」などのライブ活動を行う「独立研究者」。確実な知識とはなんであって、それを得るにはどうすればよいのかをめぐる知の営みを、古代ギリシアから現代までの数学者たちの思考を紹介しながら語り続ける。語られる数学は難しいのだけれども、認知にとっての身体性の意味が、明晰な文体で鮮やかに浮き彫りになってくる。


 身体性を持たない人工知能研究は、数字で一般化して固めていくのではなく、むしろ、知能を実現させるためには状況や身体が必要である生命というものの探求にも向かっていった。最終章「計算と生命の雑種」では、地球環境の激変をはじめとする様々な危機に直面する現代において、計算による認識の拡張とともに、生命体である人間の自律的な思考と行為による意味の生成の必要が呼びかけられる。


 計算する生命。計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編みなおし続ける。タイトルにこめられた著者の熱い想いに気づいたとき、力強く、自分が広がっていくのがわかるだろう、きっと。

雑賀恵子の書評「現代社会用語集」入江公康

 例えば、「新自由主義」を引いてみる。説明文中の一文。「(…)貿易自由化によって一国の経済を多国籍企業の食いものにするとともに、国内的には民営化と規制緩和、社会保障・福祉・医療・教育などへの公的支出削減を政策の柱に『小さな政府』をめざす。手前勝手な『自己責任』の哲学をふりまわし、教育は自己投資、失業は能力不足のせいとほざく」。なるほど。


 次に「負債」。「(…)借りたらさいご、債務奴隷まっしぐら。負債は支配・統治の手段なのだ」として、国家に埋め込まれた負債システム=資本主義について触れる。そして、「いっさいの負債はデッチアゲであり、したがう必要がない」。えっ、そうなの?


 それなら「学費」。学費が高額なら、経済的に不利な家庭の子どもは大学に行けない。学生がバイト漬けなら、安価労働力が労働市場に大量参入するから賃金を押し下げる。親に出して貰えば、親への依存を生んで自立が奪われる。奨学金は高利の借金。返却のために定職に就かねばならず、生き方の多義性を殺す、というのが要約。


 性格が歪みそう? いやいや、本丸をズバッと撃ってるよね、と納得する?


 本書は題名の通り、「ことば」「ひと」「出来事」「シネマ」と四つのジャンルに分けて、五十音順に並んだ用語集である。用語集であって、用語辞典ではないのは、明らか。つまり、中立的(?)な用語解説ではない。わたしたちの生きているこの社会がどういうものであるのか、それを考えるために、取りかかりとなるような単語を集めて、著者が切った本である。ただし、切ってみせてはいるが、捌くまでいかない。それをするのは、読者の側だからである。


 本書の目的は明確だ。冒頭の「はじめに」で、この「社会」の自明性をはぐこと、「あたりまえ」を疑ってみる/疑うことだ、と宣言している。


 この社会の「あたりまえ」を疑う、ということは、ひいては、親や教師が言っていることばかりではなく、学校教育で習ったものすら疑うことを含む、と私は思う。過激に聞こえるだろうか。いや、そもそも「学問」とか「研究」の基本の一つは、この疑うということなのだ。そんな大上段に構えなくとも、自分が誰とも取替のきかない自分であることを自分がまずしっかりと認め、自分が伸びやかに呼吸できるような空間を確保するためには、自明だと思っている/思い込まされているものを疑うことが大切だ。


 これは、呼びかけの本である。「用語」に対する著者の説明に驚いたり、納得したりしても、その説明を丸呑みにしてそこにとどまっていてはつまらない。呼びかけに応えて、さあ、自分の思考を紡ぎながら、もっと遠くへ行こう。

雑賀恵子の書評「世界哲学史」伊藤邦武/山内志朗/ 中島隆博/納富信留 責任編集

 2020年世界のあちこちで猖獗を極めているコロナ禍のなか、君たちはなにを見、なにを聞き、なにを感じ、なにを考えているだろうか。あっという間に、学校生活も、家族の生活も変わってしまい、これからの進路に戸惑いと不安を抱いているかもしれない。 感染拡大を防ぐという目的で、個人の自由な行動や経済活動を制限するために、すなわち私権を制限するために、行政はどのような手順を踏んだのか。個人と公益の関係はどうなっているのだろう。各国の対応は、どうであるか。独裁的な国家と民主的な国家とでは、このような非常事態に対する政策及びその結果にどのような違いがあり、どう評価したらいいのか。これは戦争だと語った各国指導者も何人かいたが、実際の戦争の場合と、パンデミックによる非常事態とでは、何が異なり、何が同じなのか。 医療崩壊を起こしたところでは、「命の選別」がやむなくなされたと報道されている。「命の選別」について、生命倫理はどのように語ってきただろうか。また、目に見えないものに対する恐怖から、感染者と目される人々やさらにはその民族への差別や排除もみられたが、大衆の心理はどのように動くのか。 パンデミックにより新自由主義に支えられたグローバル経済の脆さが露呈されたし、パンデミック自体グローバリゼーションによって蔓延が加速されたとも言える。事態が収束しても、全体的な経済的ダメージは大きく、このダメージは低所得者層ほど苛烈に受けるからさらに格差が広がるのは間違いない。一方で、経済活動の停滞は、深刻な環境汚 染を少しばかり改善し、空の青さや河川や運河の透明さに驚いた人々もいる。 いずれにせよ、君たちは、紛れもなく世界史に記録される大きなイベントに立ち会っているのだ。 このパンデミックのなかで起こっていることをしっかり観察しよう。そして、パンデミック後の社会や価値観がどう変容していくか、いや、どう変わっていくべきなのかを考えよう。提示された問題群は、現在のものであると同時に、野生から離脱し文明社会を築いてきた人類がその原初から背負ってきた問題でもある。 そうだ、考えるための武器は、哲学である。今年1月から毎月一冊刊行されている『世界哲学史』は、全8巻の新書シリーズだ。従来哲学史というのは、ギリシア哲学から始まって西洋哲学を中心に語られてきた。そもそもが歴史を記述するという視点、近代という区分そのものが西欧の思想に立脚している。本シリーズは、西洋のみならず、中近東、ロシア、インド、中韓日、東南アジアやアフリカ、オセアニア、ラテンアメリカやネイティブ・アメリカと空間的にも、現在から過去や未来へと時間的にも、地球から宇宙へ、万物へと対象を広げ、世界哲学を描き出す。第一巻序章には、「世界哲学とは、哲学において世界を問い、世界という視野から哲学そのものを問い直す試みなのである。そこでは、人類・地球といった大きな視野と時間の流れから、私たちの伝統と知の可能性を見ていくことになる」と宣言されている。さあ、 武器を磨き、身につけよ。この世界で、君が生きるために。

雑賀恵子の書評 人新世の「資本論」斎藤幸平

 2020年、産業革命以前より地球の平均気温は1.2度上昇した。もし2030年にプラス1.5 度になるとすると、臨界点を超えて地球温暖化は暴走し、危機的な状況を迎えるといわれている。現在すでに気候変動によって、世界各地で異常気象が続き、大きな被害をもたらしていると同時に、持続的な食料生産への懸念も深刻である。一方、世界の格差は広まる一方だ 。ここに来て、あちこちで目につくのは、SDGs(持続可能な開発目標)である。2015年に国連が掲げた目標で、各国政府も大企業も推進している。意識ある人々も、自動車に乗るよりも公共機関利用に、できなければ電気自動車にして、エコ袋をもち、プラスティックのゴミをなるべく出さないように生活を変えようとしている。だから、この努力を続ければ、人類は危機を回避して発展をしていく可能性はある…??

 著者はのっけから、SDGsのお題目を唱えたところで、それはアリバイ造りであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかないと断じる。

  人類の経済活動が地球の地質や環境に重大な影響を与えている現在を、「人新世」と位置付ける見方がある。著者は、気候変動をもたらした経済活動の根底にあるものを帝国的生活様式として分析する。後期資本主義の発展とそれによってもたらされる豊かさは、周辺部(低開発地域)の収奪によって生み出されたものであり、恩恵に預かる中心部(高開発地域)は、常に周辺を見出してそこに矛盾を追いやってきた。

  中心部においても格差は大きい。中心/周辺は地理的な意味だけではなく、結局のところ大資本が富を独占する。強い国家はそれと協働する。それがグローバル経済の実態だ。それが環境破壊と気候危機をもたらしているのである。著者によると、人類の経済活動が全地球を覆ってしまった人新世は収奪と矛盾の転嫁を行うための外部が消尽した時代である。

 だとすれば、経済的な発展を手放さない限り、言い換えれば経済的な発展を至上の善であり目的であるとする資本主義システムを廃棄しない限り、人類は、危機を回避できないのではないか。この文脈から、著者は、再生可能エネルギーなどに公共投資を行い、景気を刺激しつつ持続可能な緑の経済に振り向ける気候ケインズ主義の限界を指摘し、続けて、資本主義システムでの脱成長などあり得ないと論じる。

 では、どこに希望を見出すか。脱成長コミュニズムだ。20世紀末崩壊していったソ連をはじめとする共産主義国家群を範としているのではもちろんない。いまさら?ではなく、いまこそ! K・マルクスを読み直し、マルクスが最後に目指したものとしての「脱成長コミュニズム」である。コミュニズム、すなわち「コモン」。ここで、「私」、「 国 家 」、民主主義が問い直され、危機回避の軸が模索される。

  著者の分析や主張は、実はさほど目新しいものというわけではない。しかし、手に取り易い新書でベストセラーになっている。「知識」として読み飛ばし消費していくのではなく、本書を手にとった人たちが、私/たちがこの地球で生きていけるよう、思考と実践を深められるかどうか、そこに未来の希望はかかっている 。

雑賀恵子の書評「生まれてこないほうが良かったのか?」森岡正博

 タイトルにぎょっとした方もいるかもしれません。この問いは、誰が誰に向かって投げかけたものなのか。「こんなことなら、生まれてこないほうが良かった」と絶望した人の嘆きを聴き取った人は、そう思わせる状況がなんなのかを考え、どうにかしようとするでしょう。誰だってしあわせに生きていたいものだということは所与の自明のものとされ、それができないからそういうことを言うのだ、と受け取るからです。そもそも、もし自分が生まれてこなかったのなら、今ここでそう考えている自分(主体)はいないわけで、どちらが良かったのか、自分(発話主体)が比較することはできません。つまりこの問いは通常、どちらが良かったかという比較に関するものではなく、自分の現在を受け入れられない人が、誰かに自分をそれでもなお肯定して認めて欲しいとか、自分の状態を救って欲しいとかの願いを込めて絞り出した叫びのようなものだと捉えられるのです。


 ではそうではなく、「一般的な問い」として、この問いを捉えるとどうなるでしょうか。これと格闘したのが本書です。古代より現代に至るまで、人間が生まれてくることや、人間を生み出すことを否定する思想があります。大まかに反出生主義と呼ばれるものです。著者は、自分が生まれてきたことを否定する思想を「誕生否定」と呼び、人間を新たに生み出すことを否定する思想を「出産否定」と呼んで区別します。近年、哲学者デイヴィッド・ベネターの、全ての人間の誕生は害悪であり、人類は出産を諦めることにより消滅するのが良いという本が話題になりました。著者は、古代ギリシア文学やインド思想、ブッダの哲学、ゲーテの『ファウスト』やショーペンハウアー、ニーチェなどを丹念に解きほぐしながら、誕生の否定と肯定の思想に真摯に迫っていきます。誕生が良いか悪いかを功利主義的に論じたベネターを退け、「誕生肯定」を打ち立てるためです。著者のいう「誕生の肯定」とは、「生の肯定」や「人生全体の肯定」ではなく、自分が生まれてきたことを本当に良かったと心の底から思えることです。


 これまで生命倫理や環境哲学など現代の私たちが直面している問題を幅広く論じて、「生命学」を提唱してきた著者は、さらに「生命の哲学」という領域を切り開くことを本書において宣言しています。もしかしたら、著者自身が生きて在るために踏み締めることのできる強い地面を求めているからかもしれません。しかし、だからこそ、わたしたちは「生命の哲学へ!」という呼びかけに応じ、本書の言葉の森を辿り自分の生をかたちづくっていけるのでしょう。

雑賀恵子の書評「心にとって時間とは何か」青山拓央

「時間とは何か」なら、まだわかる。物理学や量子力学の難解な議論の本かしらと想像するかもしれない。だが、本書は「心にとって時間とは何か」だ。心にとって、ということは、 時間というのは何かの心象ということをも含むのだろうか。

  確かに、子供の時は長いと思えた一日も大人になるにつれ経つのが短く感じられるとか、何年も前のある出来事が「昨日のことのように」感じられるとか、そういうことを考えれば、なるほど、時間とは、心、認識の問題かもしれないと思えてくるのではないだろうか。タイトルにそんな疑問を持つ人にこそ、読んでいただきたい。

 実は、時間についての考察は、アリストテレスも、中世のアウグスティヌスなども取り上げた、随分古くからの哲学のテーマだ。そして、本書で挙げられている時間をめぐる問題群及びそこから展開される問題群もまた、身近であり、それだから多くの人が論じてきたものである。決して目新しいものではない。

 本書は、心と時間をめぐる議論をいく筋かの道に分けて、 脳科学や心理学や倫理学や、そのほかさまざまな分野における従来の知見を紹介し、そしてその道から導き出される人間生活における心と時間の問題を、別の道筋として示し考察していく。

 そのために章立てには趣向が凝らされ、入念に道が配置されている 。第一章には「知覚」(時間の流れは錯覚か)、第三章「記憶」、第五章「SF」(タイムトラベルは不可能か)、第七章「因果」と、奇数章には心と時間をめぐる議論の道が敷設される。偶数章には「自由」「自殺」「責任」 「不死」と人間生活のテーマを置き、その前の奇数章を踏まえながら時間概念とどう関わるかが語られる。さらに、第一章「知覚」と第五章「SF」、第二章「自由」と第六章「責任」、第三章「記憶」と第七章「因果」、第四章「自殺」と第八章「不死」が立体交差するように対応しているのだ。読み手は、それぞれの道を辿りながら、そこにある風景、つまり紹介される知見を愉しむが、どこかに行き着くことはない。

 著者とともにいく筋もの道を彷徨いながら浮かび上がってくるのは、時間というものをめぐる謎だ。つまり、本書は、踏み分けられた道を示すことにより、踏まれたことのない未知の領域を指し示しているのである。著者なりの解答ないしは結論を性急に求めるような、クイズ好きの人には向かない本と言ってもいい。

 そうではなく、著者とともに巡った思考の旅から帰還することないまま、自分なりの新たな道を探しに行きたくなるような本なのだ。

雑賀恵子の書評「理不尽な進化 遺伝子と運の間」吉川浩満

 恐竜の嫌いな子はいない(だろう、多分)。地球上のどこにも、今、恐竜はいない。絶滅してしまったからだ。なぜ2億年近くも興隆を誇った恐竜の時代が終焉を遂げたのか。それは、ユカタン半島のちょっと先の浅瀬に墜落した巨大隕石の影響だ、と言われている。科学番組などのさまざまな再現映像で見たら、1日で地球の裏側に達するという凄まじい熱波や衝撃波、降り注ぐ岩石や有毒物質の地獄絵に、あっという間に恐竜たちは壊滅状態に陥ったという印象を持つ人もいるかもしれない。だがそういうわけでもなく、隕石衝突による地球環境の激変や粉塵が地球を覆うことによって起こる寒冷化などで食物連鎖が断たれ、彼らの舞台は幕を引かれるのである。地球上の生命体のかなりの部分が絶滅してしまう大絶滅期は、知られているだけでも5回ある。このような絶滅は、厄災のような地球環境の激変だから、絶滅したのは、全くもって運が悪かったと思えてしまう。たまたま変化した環境に適していたものが、運よく生き延びたのだろうか。


 だが、そればかりではない。地球46億年、生命が発生してから40億年という長い時間の中で、想像もつかない多くの生命が生まれたが、生物種の99.9%は絶滅してしまったという。なぜだろう。ここで頭に浮かぶのが、進化論。進んで変化していく、というから、生物は優れたものが生き残り、劣ったものは滅び去る自然淘汰という競争ゲームによって世界は成り立っている。だから進化の先端にいる現在の人間は、700万年前チンパンジーと分かれた人類の祖先よりもさらにずっと優れている、とするのが進化論だと受け止めている人もいるだろう。一方、そもそもが生存競争というゲームではなく、環境に適応したものが生き延びたという適者生存だ、というのも進化論である。では、適者とは何かというと、生存したこと自体によって定義される。よく考えれば、これはトートロジー(同語反復)で、定義になってない。一体、進化論って、なんだ?


 進化するって、わたしたちは日常的にもよく使うし、自分のいる世界でより良い姿や生きる方法を持つことではないの?


 本書は、絶滅してしまったものたち(=敗者?)の側から進化を眺めることから始まる。そうすると、絶滅というのは、理屈や法則を超えて、運や遺伝子(能力)が絡んだ理不尽なものとしか言いようがないものになってくる。そして、自然淘汰や適者生存の俗流理解をときほぐしながら、進化というものをめぐる現代の進化論者たちの議論に踏み込んでいく。と、まとめあげれば、進化論の解説書のように思えるが、そこに留まらない。「進化論」という思想を足場に縦横無尽に広がる本書を読み進めば、サイエンスの思考のあり方や、サイエンス(観察-言語化/理論化-実証-操作)の領域には捉えられないアート(言語/理論化し得ないもの)の領域にも目を開かされる。随所に置かれた註が、これまた読者の興味を掻き立てる。生物進化をめぐっての議論なのに、もしかしたら、わたしたち自身の世界観も揺るがせかねないくらい、ドライブをきかせて見せてくれるのだ。要するに、めちゃくちゃ面白い「哲学書」だ。

雑賀恵子の書評 「イスタンブールで青に溺れる」横道誠

青に溺れるってなんだろう。

著者はどこにいっても青い美しいものを探している、という。世界各地を旅した著者は、とりわけイスタンブールで青い美しいものへの嗜好が存分に満たされる。モスクの暗い内壁を光が淡く青色に照らす、上品な荘厳さ。青と青緑とクリーム色がとろけるように混じり合う装飾タイル美術館の入り口…。青の饗宴だ。なぜ青に惹かれるか。それは、著者によると自閉スペクトラム症がある人の傾向らしい。自閉スペクトラム症があると自然界からの吸引力が強まりやすいそうである。空や海の色が青いからかもしれないし、逆に空や海に強く惹かれるので、青が好きなのかもしれない。いま思い出しても、記憶の中に収まったイスタンブールの青に溺れそうになる、と著者は書く。イスタンブールの記憶は、石原吉郎の詩にある「無防備の空」や「正午の弓となる位置」という言葉となぜか重なる。これもまた、自閉スペクトラム症の「こだわり」だとしている。

そう、著者の横道誠は、自閉スペクトラム症(ASD)と注意欠如・多動症(ADHD)の診断を受けている文学研究者である。40歳の時に受けたこの診断によって、なんだか多くの人と違うようだけれどもといぶかしんできた自分のしっぽを掴むことに成功した、と別のところ(『みんな水の中』医学書院、2021)で述べている。長年いぶかしむということは、世界との関わりのなかで自分が生きる仕方に、他の人たちとの違いを感じて苛立った思いもしてきたのだろう。どうしてなのかということを外部から診断されることで、腑に落ち、著者は自分の身体をフィールドとして発達障害というものを考え、当事者研究に踏み込んでいく。それをまとめたのが『みんな水の中』である。

横道は発達障害とされる人たちを「私たち」と表現しているが、しかし、「健常者/障害者」ときっちり線引きできるものではない。神経発達ということからみれば、人間の脳は多様な形をとる。つまり、定型に属する人もそれぞれ多様であり、定型と非定型はグラデーションとイメージしてもいいかもしれない。「自分」を文化人類学の手法で観察・研究し、哲学や言語学、文学から得たものを入れ込んで、ケア、セラピー、リカバリーを見通す。「詩のように」言葉を紡ぐパート、「論文的な」記述で考察するパート、「小説風」のパートの三部構成は、ページの紙が青、白、水色で縁取りした白で塗り分けられている。

「自分」を旅した記録が『みんな水の中』だとすれば、その自分が世界各地を旅した記録が『イスタンブールで青に溺れる』だ。取り上げた25の都市に、色彩が溢れだし、不意に思い出される小説や詩の言葉が散りばめられ、過去の記憶が召喚される。「発達障害者」の世界とのきり結び方のぎこちなさが冷静に分析もする。それらがないまぜになった、これは一体エッセイなのか、評論なのか、小説なのか。

そして、読むものは知的興奮に溺れるのだ。

火星研究者、青木翔平先生の外国語習得法

東京大学大学院 新領域創成科学研究科・講師 青木 翔平 先生 東京大学大学院 新領域創成科学研究科・講師 青木 翔平 先生

~Profile~
東北大学理学部卒業、東北大学理学研究科博士課程修了。イタリア宇宙科学研究所(INAF/IAPS)博士研究員、ベルギー王立宇宙科学研究所(IASB/BIRA)博士研究員、リエージュ大学(ULiège)ベルギー国立科学研究基金研究員、宇宙航空研究開発機構 宇宙科学研究所プロジェクト研究員を経て、2022年4月より東京大学大学院新領域創成科学研究科複雑理工学専攻講師。令和3年東京大学卓越研究員(公募型)。國學院久我山高等学校出身。
京都大学大学院 農学研究科・助教 白石 晃將 先生京都大学大学院 農学研究科・助教 白石 晃將 先生

~Profile~
2012年京都大学農学部卒業、2014年京都大学大学院農学研究科修士課程修了。修士課程在籍時、日本国際協力機構(JICA)を通じて短期青年海外協力隊としてバングラデシュに派遣。2015-2016年国連食糧農業機関(FAO)でのインターン及び2016-2017年日本学術振興会特別研究員を経て、2017 年に京都大学大学院農学研究科から博士号(農学)を取得。また、同年京都大学大学院思修館プログラム修了。同大学院博士課程修了後、2017-2018年外務事務官として外務省経済局経済安全保障課に勤務。2018-2020年FAOジュニア専門官、2020-2021年FAO食品安全専門官を経て、2021年1月より京都大学大学院農学研究科助教、現在に至る。

「かつて火星に存在した水はどこへ失われたのか?」 「生命が存在できる惑星大気環境が維持される仕組みは?」 ――このような謎の解明を追求するのは 東京大学大学院新領域創成科学研究科・講師の青木翔平先生。 惑星科学・天文学分野と火星研究の魅力、イタリアからベルギーへ、 そして日本へと、国をまたいだ研究の意義、将来展望などについて、 京都大学大学院農学研究科・助教の白石晃將先生に聞いて頂きました。 高校生や大学生、未来の研究者に向けたメッセージもいただいています。


©JAXA/火星衛星探査計画MMX

一番身近な惑星、火星 惑星科学・天文学分野と火星研究の魅力


学問研究の今

白石:最初に、なぜ惑星科学・天文学分野、中でも火星に興味を持ったのか教えてください。

青木:高校生の時、宇宙の謎に迫るNHKのドキュメンタリー番組を見たのがきっかけです。番組では、数ある惑星の中でも火星について特集されていました。生命の存在可能性や惑星環境の進化などに関する研究者の説明を聞き、非常にワクワクしたことを覚えています。大学受験では、「天文学」をキーワードにインターネットなどで検索し、天文学科のある東北大学理学部を志望しました。進学後に、火星について学べるのは宇宙地球物理学科であることを知り、配属時に選択しました。

白石:そんな火星の魅力とは?

青木:惑星は大きく分けて木星型惑星と地球型惑星に大別できます。木星型惑星は、主に水素とヘリウムから構成されていて、ガス惑星とも呼ばれます。太陽系では木星と土星などが該当しますが、大部分が気体でできているため人が降り立つことは難しいです。一方、地球型惑星は、固体惑星とも言われ、地表面と大気が存在し、生命の存在や、遠い将来には人類が移住できる可能性があります。私たちの太陽系では金星、地球、火星がその代表例です。中でも火星は、過去や現在に生命が存在した可能性があり、生命が存在できる惑星環境が形成・維持された謎に迫ることができるのが大きな魅力です。火星の大気は地球の0.6%ほどしかありませんが、地表温度がおおよそ-70℃から+30℃と地球に近く、太陽系惑星の中でも環境が地球に一番似ていますし、遠い将来、火星を温暖化させることで人間が移住できるのではないかとも考えられています。

話題の系外惑星研究※への応用
※私たちの太陽系の外にある、遠い恒星の回りに存在する惑星。


白石:なるほど…他にはどうでしょう?

青木:近年、私たちの太陽系の外に「第二の地球を探す」観測研究が盛んで、候補となる惑星が続々と見つかっています。また最近では、アメリカ航空宇宙局(NASA)が打ち上げたジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡により、これまでとは比べ物にならないほど詳細かつ遠くの天体画像が公開されるようになり、第二の地球発見への期待が膨らんでいます。ただ、系外惑星における地球型大気の観測は、現時点では非常に難しいです。そこで、私たちの太陽系にある火星や金星などの地球型惑星を詳しく調べ、それをもとに、太陽系の外にある地球型惑星の大気の成分や、その成り立ちを理解するのに役立てようとしています。

火星の太古の水はどのように消えたのか?火星の大気の観測から迫る


白石:具体的な研究テーマ、その方法、アプローチについてもお聞かせください。

青木:現在、取り組んでいる研究テーマの一つは、火星からなぜ水が失われたか、そしてそれがどこへ消えたかの謎の解明です。これまでのところ火星表面には、水の存在なしには形成されない鉱物や地形がたくさん見つかっています。そのため火星は、かつては現在の地球のように温暖で湿潤な気候で、大量の液体の水が地表面に存在した時代があり、40億年前までは地球のように海があったとも推測されています。しかし現在の火星は、薄い二酸化炭素大気に覆われた寒冷乾燥気候となっていて液体の水はなく、大気の水蒸気や極域の氷がわずかに見つかっているだけです。では、かつて大量に存在した水はどこへ行ったのか。多くの科学者は、ある程度の水が宇宙空間に放出されたと考えていますが、それはどのように宇宙空間へ輸送されていったのか、私はそのプロセスを観測データから明らかにしようとしています。一般的に、火星を含めた惑星大気研究は、①理論的計算による数値シミュレーション、②人工衛星などに乗せる観測装置の新規開発、③大型望遠鏡や観測機で取得したデータの解析、といったアプローチがあります。どれも重要で、各々のプロフェッショナルが協力して研究を進めています。私は③の専門家で、水に代表される火星大気の成分の観測を通して、生命が存在できるような惑星の環境はどのように維持されるのかを理解したいと考えています。

現在に至る研究の軌跡 大学院卒業後は、より良い環境を求めてイタリアとベルギーへ


ベルギーでは王立科学アカデミー「バロン・ニコレ賞」を受賞

白石:火星に関する研究を、日本だけでなくイタリア、ベルギーでもされていたようですね。具体的な研究内容とキャリアについて聞かせていただけますか。

青木:海外へ拠点を移して研究を行うことを考え始めたのは2012-2013年頃だったと思います。博士課程に在学していた頃は、望遠鏡で用いる観測装置の開発や、世界最大級の日本の望遠鏡であるすばる望遠鏡の火星観測データを用いて研究していました。しかし、惑星探査機により取得されたデータをもっと深く解析してみたいと思うようにもなりました。当時日本では「のぞみ」や「あかつき」といった惑星探査機が打ち上げられてはいたものの、惑星軌道へは到達しておらず、そのデータは手元で使える状態ではありませんでした。そこで、既に惑星探査機の軌道到達に成功している海外に出る必要があると考え、欧米の大学や研究機関の中からイタリア宇宙科学研究所(INAF/IAPS)を博士課程修了後の進路先として選びました。そこでは、「マーズ・エクスプレス」(欧州の火星探査機で、2004年から火星軌道で観測を行っている)プロジェクトチームの一員として、大気の温度・組成・エアロゾル量など、火星の気候を調べました。その間に、ベルギーでは火星の大気をより精密に観測するための新たな観測装置の開発が進み、2016年3月には「トレース・ガス・オービター」(欧州とロシアが共同で進める火星探査ミッション、「エクソマーズ」の一環)という新たな火星探査機が打ち上げられたとの情報を受け、2016年秋にベルギー王立宇宙科学研究所に拠点を移しました。ここで、火星の水蒸気の鉛直高度分布を詳細に調べて、水が宇宙へ消失していく過程の一端を明らかにすることができたのです。

白石:それでベルギー王立科学アカデミーからバロン・ニコレ賞を受賞されたんですね。

青木:はい。1998年に創設された惑星科学・超高層大気研究の分野で、特に優れた国際的な若手研究者に贈られるベルギー王国の伝統的な賞です。

白石:火星をはじめ惑星科学分野の研究では多くの研究者が関わって一つのプロジェクトが進められると聞きました。なぜ青木先生だけが受賞されたのでしょうか。

青木:多くの場合、惑星科学分野の研究では、人工衛星を作るエンジニアから、データを取得し解析する研究者など50人以上が関わります。ただ、取得したデータの解析やその解釈が、ミッションの科学目標を明らかにするための最後の仕上げ作業として、やはり重要ということだと思います。加えて、プロジェクトを通じてチームワークへの貢献度の高さなども加味していただけたものと理解しています。もちろん今も、その装置で得られた観測データの解析は続けています。

チリ・アタカマ砂漠のALMA望遠鏡の前で

日本の火星探査計画に貢献したい!


白石:日本へ戻られたきっかけは?

青木:ベルギーでの研究を進める中、日本の火星衛星探査計画(MMX)を知りました。MMX(Martian Moons eXploration)は、世界初の火星衛星サンプルリターンミッションで、火星の月である「フォボス」からサンプルを携えて地球に帰還する計画です。2024年が打ち上げ予定で、このプロジェクトにどうしても携わりたいと考えていたところ、2021年4月に宇宙航空研究開発機構(JAXA)のMMXプロジェクト研究員として採用していただきました。そして縁あって2022年4月からは、MMXプロジェクトの火星観測を主導されている東京大学の今村教授と同じグループで研究室を開設しました。MMXにより打ち上げられる衛星は、気象衛星ひまわりのように火星の赤道面を回ることで連続的に火星を撮影することができ、詳細な気象観測ができる点で非常に優れています。また、隕石の衝突などによって火星から舞い上がったチリもフォボスから採取するサンプルに含まれていると考えられていますので、それを解析すれば生命の痕跡(死骸)が見つかるのではと、今からワクワクしています。

なぜ研究の道に、その面白さと苦労


研究のきっかけと将来展望

白石:日本、イタリア、ベルギー、そして日本へと、最適な研究環境を求め続けてこられていますが、そもそもいつ頃から研究者を目指すようになったのですか。

青木:最初にお話しした通り、高校時代にNHKの特集番組を見てからです。大学院修士課程では、一般企業での就職も考えましたが、「未知の事柄を世界で初めて知ることのできる喜び」や、「真実を科学的に検証する面白さ」を《味わい続けたい》と、研究者の道を目指しました。

白石:「世界で初めて知る」というのは確かに大きな魅力ですよね。一方で難しさも?

青木:惑星科学分野の研究では多くの研究者が一つのプロジェクトに関わりますので、様々なノウハウを共有できるメリットもある一方、テーマの奪い合いや連携ミスが起こってしまうという難しさもあります。あらためて「コミュニケーション」の重要性を再認識するとともに、常にチームのメンバーと情報を共有しながら相互理解を深め、研究を推進することに努めています。

白石:チームで働くことの良さと難しさですよね。最後に、研究の将来展望について教えてください。

青木:火星だけでなく他の惑星研究にも共通して言えることだと思いますが、観測技術の進展で観測精度が上がり、大気や表層環境、生命の起源などについて、これまでにない新たな情報が得られると期待されています。今は、広く地球型惑星に興味を持っているため、火星だけではなく金星の研究も少しずつ進めています。金星も初期には豊富な水が存在していましたが、火星同様、宇宙空間へ失われた可能性が指摘されています。金星は火星と異なり、観測データは豊富ではありませんが、灼熱の惑星であることから、急激な気温の上昇による温室効果が起こったという説が有力です。2030年前後にはヨーロッパやアメリカが相次いで金星探査機を打ち上げることが決まっていますから、それらのプロジェクトにも貢献したいと考えています。その先は、太陽系研究の知識をベースに、系外の地球型惑星の研究へと幅を広げていきたいと考えています。

高校生や大学生へのメッセージ


白石:最後に、高校生や大学生、未来の研究者にメッセージをお願いします。

青木:「こうなりたい、これがしたい」という気持ちを大切にして、その瞬間を逃さずに行動することが将来の道を開くカギになると思います。私の場合は高校生の時、NHKの火星特集番組を見た後にインターネットなどで情報を読み漁り、将来の展望を想い描いていました。同じような瞬間がいつ、どのような時にみなさんに訪れるのかはわかりませんし、それはおそらく、一人ひとり違うと思いますが、その瞬間に向けて準備をすることが大事だと思います。興味を持ったものがあれば、自分で訪れてみる、それについて先輩に話を聞く、本やインターネットから情報を得るなど、機会ときっかけを活かすことです。また、将来を想い描くのに時間を惜しまないことも大切ですね。ちなみに惑星科学・天文学分野に興味のある方にですが、惑星探査で採られたデータは、原則、半年後には公開すべきだとされていますから、誰でも見ることができます。例えば、NASAのプラネタリデータシステム(https://pds.nasa.gov/)では、難しいデータ以外にも、惑星探査機に搭載されたカメラで撮られた画像などを見ることができるのでお薦めです。

青木先生の外国語習得法

 私は、仕事では主に英語を使っていました。中学、高校、さらには大学でも英語を学ぶ日本人であれば基本的な知識は身についていると思うので、後は慣れだと思います。私の場合は、「日本語を使用することができない環境」に身を置いたことで、コミュニケーションを取るには英語を話すしかなくなり、徐々に会話や議論ができるようになりました。帰国後も毎週英語で行われる会議に出席するなど語学力を低下させない努力をしています。

 一つ重要なポイントがあるとすれば、それは「人の発言を聞き真似ること」です。話し言葉特有の表現などは特に、ネイティブスピーカーなどが使うフレーズを真似て使うことで自分のものにしていきました。

 英語以外では、イタリア語は話せますが、ベルギーで話されるフランス語やオランダ語はほとんど話せません。イタリア滞在時は、語学学校にも通い、日常会話の習得に努めました。英語と同様、最初はネイティブの発言を聴くことに集中し、だんだんと使えるようになりました。イタリア人は非常に大きな声で話すので集中しなくても自然と耳に入ってきます(笑)。一方、ベルギーではフランス語を教える学校にも通いましたが、公用語が英語で日常会話も自然と英語になり、フランス語の習得には至りませんでした。やはり、その言語に身を置く環境を自分で作ることが重要なのかなと思います。

ベルギー王立宇宙科学研究所にて


新しい社会を作るために
半学半教で、学生をまん中に置いて分野横断を加速

教育・研究分野で日本の大学界を先導する慶應義塾。
先頃は、他大学の学生も受け入れての大規模な職域接種でも注目を集めた。
この春、《義塾としての理想の追求》を掲げられて塾長になられた伊藤公平先生は、世界の最先端技術である量子コンピュータの研究者で、海外での研究経験も長い。教育DXに加え、グローバル化も一層加速すると予測されるポストコロナにおける日本の大学について、慶應義塾の進める改革を中心に、その展望をお聞きした。

P r o f i l e
1989年3月 慶應義塾大学 理工学部 計画工学科 卒業。1992年12月カリフォルニア大学バークレー校 工学部M.S.(修士号)取得。1994年12月カリフォルニア大学バークレー校 工学部Ph.D.取得。1995年4月 慶應義塾大学理工学部助手。専任講師。助教授を経て2007年4月から教授。2016年11月~2017年3月 大学グローバルリサーチインスティテュート副所長。2017年4月~2019年3月 慶應義塾大学理工学部長・理工学研究科委員長。2021年5月から現職。慶應義塾高等学校出身。

大学とは、慶應の使命とは

 大学は、生涯の友や師に出会うことのできる場であり、そこでの学びや経験が将来につながる《人生の好循環の起点》でありたいと思っています。現在大学を目指しておられるみなさんは、50年後の社会を作るわけですから、その使命を一人ひとりに《自分事》として認識してもらうとともに、自ら新しい社会を作っていく喜びをぜひ経験してほしい。
 一方、受け入れる大学には、学生が未来の社会設計に貢献、寄与できるための仕組みを作り、環境を用意する義務があります。慶應義塾の創始者、福澤諭吉の言葉を借りれば、「全社会の先導者」を育てる使命があるのです。慶應では今夏、ワクチン接種と並行して、学生自らが厳しい感染対策を策定し体育会やサークルで練習や活動を行ったことが功を奏し、感染第5波を免れました。こうした経験も、将来、エネルギー危機や環境危機の解決に挑戦する際、必ず活かされるものと期待しています。
 私立大学という立場からは、慶應はこれまで、経営の危機に瀕した際にも国に助けを求めず、「社中協力」の理念で乗り越えるなど、常に健全な少数派を目指して社会変革を行ってきました。創立から163年を経た今でこそ、国内の大学の中でそれなりの地位を得ていますが、「そこに行けばよい仕事につけ、将来が準備されている」というブランド大学の象徴的な存在になるのは避けたい。社会がどのようなピンチに遭遇しても、最悪のシナリオを想定しながらも常に楽観し、いい意味でスマートに、みんなで仲良くよい社会を作っていこうと周囲を巻き込んでいく。このような慶應の良さ、本来の精神を、もう一度呼び戻したいと考えています。

日本の大学のこれからについて世界の一流大学から取り残されないために

相対的ではあるにせよ、国際的な地位が下がってきていると言われる日本の大学ですが、今後は、大学間で競争するのではなく、国際展開も含め互いに協調していくべきだと考えています。
 例えば世界の学長が集う国際会議で、東大や、早稲田、慶應が個々に発言するより、「われわれは力をあわせてこんなことをしたい。だから一緒にやりませんか」と訴える。その方が耳を傾けてもらいやすいのではないか。大学入試改革に限らず今の日本の教育界では、少子化を理由に後ろ向きな議論になりやすいが、最悪に備えながらも前向きに考え、世界を視野に、節度を持って協調することに活路を求める方がはるかに建設的ではないでしょうか。
 ちなみにある国際会議では、「コロナ禍における学長の一番大事な仕事は」と問われた際に、日本を含むアジアの学長の多くが「学生の教育」と答えるのに対して、欧米の学長の多くは「資金の獲得」と答えました。事実、すでに一度に何兆円も集めてそれを運用している大学も少なくありません。しかし、例えば慶應がこうした競争に加わろうとすることは、世界の1%の富裕層を目指して平均的な日本人が財テクに走るようなもので、しようと思ってもできないし、また目指すべきでもない。日本の大学には、節度を守りみなで協調していいものを作るために努力しようというような、独自のやり方があるのではないでしょうか。

分野横断による教育改革

 慶應では、レベルの高い学生、教員、職員を一番の宝と考えていますが、私はこの3者をしっかりと横につなげ、様々な改革を行っていきたいと考えています。そして、世界が称賛するような学術的成果を生み出し、エネルギー問題、アジアの安全保障といった世界的な課題や、コロナ禍における経済支援や社会のデジタル化の後方支援といった国内の課題に対しても的確に提言していきたい。もちろんその過程では、福澤先生が「多事争論」と言われたように様々な意見が生まれてくることが望ましい。それが学生たちに様々な見方のあることを気づかせ、彼らの視野を広げ、新しい社会をデザインするのに役立ててもらえるからです。
 おりしも学術研究の世界においては、文理融合や学際融合など、20世紀までに深めてきた専門の垣根を一度解き放ち、異分野横断で新たな総合知を生み出そうという動きが目立ってきています。教育も足並みを揃え、リベラルアーツの見直し、STEAMなどの新たな概念の提唱も始まりました。
 そこで改革の一つと位置付けているのが、学生をまん中に置いた教員の連携、それが誘発する分野横断の学びの拡大です。すでに博士課程教育リーディングプログラムの実施を契機に、優れた研究業績をあげ改革に前向きな教員が、学生を介して協調し、組織を超えた連携を進めています。例えば医学部のプロジェクトにおいても、生命倫理や個人情報の取り扱いについては法学部の教員から、AIについては理工学部の教員から学ぶというように、組織の壁を越えて学生は複数の教員から学べるようになっています。学生を中心に、高い専門性を持った教員が横につながっていく。学生が自分事として、将来の社会設計のためにと助言を求めると、教員もそれに向き合い、応える中で専門性を高めていける。現在湘南藤沢キャンパス(SFC)も含めて、協調と組織を超えた連携の進め方について教員間で活発な議論が行われていますが、協調する教員が増えれば、教員の専門性をこれまで以上に引き出すことができますし、大学全体の教育・研究レベルを確実に向上させられると期待しています。慶應の力を最大限に引き出すためには、外から見てわかりやすいフラッグシップとなるような組織、学部を作るという選択肢もありますが、当面はこの流れを学部教育でも実施し加速させていきたい。改革には、学生が自分の将来に直接かかわることとして協調してくれることも大切だからです。

あらためて「半学半教」を

 学生をまん中に置くということにはもう一つ理由があります。テクノロジーの急激な変化によって、ICTでは教員より高い技術・能力を身につけた学生や、地球環境に関してはサステナビリティ・ネイティブとでも呼べるような高い意識をもった学生が増えてきたため、教える側と教えられる側という分け方にそれほど意味がなくなりつつあるからです。もちろんこれまでのように、良質な文学や哲学などの普遍的な学問を、教員から学ぶことを否定しているわけではありません。ただ、慶應義塾の精神である「半学半教」の理念が再び活かされる時代が訪れようとしているのは確かです。
 2年前に立ち上がった「AI・高度プログラミング・コンソーシアム」では、AIに詳しくプログラミングに長けた学生が他の学生に教えるという試みも始まっています。AIのように技術が日々進化するものは、学問として体系化されていないため科目になりにくい。とはいえ企業のインターンシップではプログラミング能力が問われることもある。そうした学問とビジネススキルとのギャップを、学生同士が学びあうことで埋めるという相乗効果も期待できます。
 大学教育改革についてはこれまで、国主導の施策が次々と打ち出されてきましたが、私たちの進めるこのような改革はそれとは一線を画します。私たちが始めた量子コンピュータ研究が東大にも広がったように、今後このような改革が他の大学へも広がってくれることを期待しています。

スタンダリゼーションを超えて、新しい授業、新しいキャンパスを作る

 コロナ禍によって教育の様々な問題点があぶりだされ、ポストコロナへ向けて教育は今、大きな転換期を迎えています。こうした中では、スタンダリゼーション、標準化ということにどう向き合うかも大事です。明治以来、教育の標準化を徹底してきた日本は、戦後、世界的な学力テストでトップとなるなど、それを高度経済成長の原動力としてきました。しかし今日のような変革期では、それにこだわり過ぎては改革を滞らせる恐れもあります。私大連(一般社団法人日本私立大学連盟)では、「ポストコロナ時代の大学のあり方――デジタルを活用した新しい学びの実現」(2021年7月)として、対面授業をどこまでオンライン授業で代替できるかについて提言をまとめ、新たな大学教育の方向性を示しました。そもそも一律の規定を定めることが妥当なのかは疑問です。
 例えば、フィールドワークに出ている人がコンピュータ端末で観察対象を見せ、教室にいる人が「もっとこっちにずらしてみてください」という具合に授業が進められた場合、これはオンラインによるものなのか、対面でのものなのか判断しにくい。新しいことにチャレンジしようというとき、標準化にばかりこだわると足かせとなります。儒学全盛で、しかも開国を巡って、西洋を夷狄とみなす人たちがいた幕末から明治にかけて、福澤先生が大変な勇気をもって洋学を持ち込んだように、私たちも未来を見据え、教育の本質を追い求めていきたいものです。
 来年4月からは、対面授業を全面的に行う予定にしていますが、全てコロナ前に戻るわけではありません。例えば理工学部の実験の授業について、私は以前から前もって説明ビデオを視聴してくることを提案していましたが、今やこれも可能です。今後は教員と学生で新しい授業、キャンパスを積極的に作っていきたい。1年半にわたり、通常のキャンパスライフができないままだった今の2年生については、まさに《新しいキャンパスを作っていく人たち》として、励まし続けていきたいと思います。

受験生へのメッセージ

 最近は、志望校選択において塾や保護者の影響が強まっていて、みなさんはその殻を破りにくくなっているように感じています。しかし将来、明るく楽しい、豊かな社会を作るのは他ならぬみなさんです。将来に悔いを残すような選択は極力避けてほしい。大学へ行かなくてもできることもあります。また第1志望合格を貫いて浪人するという選択肢もあるでしょう。
 最悪を想定する知力と想像力は、高校時代から育めます。チームワークも大切にしてほしい。前に進むためにも困難を克服するためにも欠かせないからです。みんなとともに新しい社会を作るためには、周りから応援される人、言い換えると「祝福された勝者」にならなければなりませんが、そのためには無駄とも思えることもたくさん経験することです。無駄は人生において必ず何かに役立ちますし、それを省くような人には誰もついてきません.そして社会の様々な問題に対して、「このままではだめだ」「こういう社会を作ってはどうだろうか」と諦めずに前向きに話し合うことです。
 質の高い教員の揃う慶應義塾では、ここまでお話ししたように、教員同士の協調も進んでいます。他の大学と同様、私たちはみなさんにより良い環境を用意すべく全力で努力していきたいと考えています。

大発見の最初の「目撃者」になろう

国立天文台
特別研究員

行方宏介氏

京都大学理学研究科博士課程2021年3月修了
三重県立津高等学校出身

国立天文台での研究と成果

 京大での学生生活を経て、昨年から東京にある国立天文台三鷹キャンパスで研究しています。国立天文台と聞くとどのような光景を想像されるでしょうか?たくさんの望遠鏡はあるのでしょうか。実はそうではありません。最新の研究に使われる望遠鏡は、岡山やハワイなど、天候条件の良い場所に建設されます。国立天文台三鷹キャンパスでは、日本と世界の多様な天文学者たちが集まり、データ解析や理論計算、装置開発等を行っています。
 私の研究対象は、太陽や、「太陽によく似た恒星」(太陽型星ということもある)で発生している「フレア」と呼ばれる爆発現象です。太陽で発生した「太陽フレア」の場合、プラズマが放出されることがあり、これが地球にも到達し、人工衛星の故障やGPSの不調等の被害につながることがあります。
 私は学生時代から、京大の新型望遠鏡「せいめい」を用いて、宇宙にある「太陽によく似た星」を観測する研究をしていました。今回、その太陽によく似た星の一つで、超巨大爆発「スーパーフレア」が発生し、さらに超大質量のプラズマが飛び出していることが発見されました。この発見により、太陽によく似た恒星だけでなく我々の太陽も、惑星の環境や社会に大きな影響を与える可能性が示されました。この成果は、天文学では権威のある「Nature Astronomy」という英国の科学雑誌で掲載され、日本国内外の多数のメディアで報道されるなど、大きな注目を集めました。

今回の成果に至るまで

 私は現在天文学を研究していますが、高校生の時から目指していたわけでは
ありませんでした。当時の私には、宇宙や素粒子物理など「基礎研究に対する興味」と、産業を通して「社会の役に立ちたいという気持ち」が同じくらいあり、どの進路を選べば両立できるのかと悩んでいました。その結果、入学時に専門を決めず3年以降に選択できる京大理学部に進学しました。
 私が今の研究に出合ったのは、大学1年生で受けた「プラズマ科学」という
授業でした。後に指導教官になる柴田一成教授が、「太陽フレア」のメカニズムについて解析されていました。太陽で爆発が起き、プラズマが飛び出して地球に衝突すると、地上の発電所や人工衛星の故障に繋がる。そんな宇宙と社会をつなぐスケールの大きなシナリオに、当時無知だった私は「そんなことがあるのか!」と深く感銘を受けました。それは「面白いだけでなく、社会にも役立つ基礎研究があるんだ!」と、それまで抱いていた科学的好奇心と社会的使命感のつながる瞬間でもありました。
 授業の後、柴田教授と直接お話しさせてもらいましたが、そこで知ったのが京大独自の技術を搭載したアジア最大の光赤外線望遠鏡「せいめい」のプロジェクトです。これを使えば恒星で発生している「スーパーフレア」の世界最先端の研究ができ、人類の安全に貢献し、生命誕生の秘密にも迫れるかもしれない。そのプロジェクトとその将来展望に私の心は躍りました。「この研究をやってみたい」と思うようになったのはその時から。約10年後の今も変わらず情熱を持ち続け、実際に「せいめい」望遠鏡を用いて大発見ができたことを考えると、非常に感慨深くなります。

今回の発見を通じて改めて感じた研究の楽しさ

 私が「研究者」という職業の選択をしたのは、実はつい数年前のことです。転機となったのは、2018年に「せいめい」が遂に完成したことでした。念願の新型望遠鏡を使った観測は心躍るものであり、また同時に大変な作業の連続でもありました。目標にしていた現象の検出確率は非常に低く、これまで世界中で誰も検出したことのない現象だったからです。
 長期の観測の後、最終的に世界初の天体現象を検出できた時、「研究者はやっぱり面白い!」と実感しました。一つの理由は、大発見の最初の「目撃者」になれるという本当の興奮に出合ったからです。もう一つは、今回の成果を記者発表した際、世界中の研究者だけでなく世間一般の方々からも大きな注目をいただいたことです。研究者にとって、自分の研究を面白いと共感してくださる方が多いこと以上に嬉しいことはありません。天文学は人々の日常に多少なりとも彩りや驚きを与えられる唯一の学問かもしれないと、研究の見方が大きく変わり、より研究が好きになった出来事でした。
 自分が本当に人生をかけてやりたいと思える仕事を見定める時期には、個人差があると思います。私はそれが大学に入ってからであり、最終的に決断したのはここ数年です。長い間、自分の気持ちと向き合い、考え続けたからこそ、研究者という職業が自分にとって最高の仕事だと確信を持て、今の仕事を心から楽しめています。
 研究の楽しみ方は、真理の探究だけにとどまりません。世界中の共同研究者との議論や、装置の開発、アウトリーチを通した社会との交流などがあります。私の周りにも、様々な形で研究に携わることを選んでいる人が多いという印象です。これからも様々な研究に携わり、自分なりに楽しんでいきたいと思っています。

ゲームチェンジ時代の製造業を切り拓く「ひらめき・こと・もの・ひと」づくりプログラムとは?

PBL授業「ひらめきづくり(1)」

 東京都市大学の新機能カリキュラムについて紹介する。2021年度から理工学部の機械工学科・機械システム工学科・電気電子通信工学科で導入され、現在、計380名から選抜された117名が3学科を横断した探求型のプログラムに取り組んでいる(次年度からは理工学部全7学科のプログラムに拡大予定)。このプログラムは、従来型の、専門科目に主軸を置いた124単位カリキュラムに対して、多彩なPBL(ProblemBased Learning)科目を中心に配置し、専門科目についても複数の学科を横断して選択していく新しい124単位カリキュラムである(詳細は大学ジャーナルVol.143参照)。ここでは、このプログラムにおいて特に独自性の高い科目「ひらめきづくり(1) ~ (5)」「ことづくり(1) ~ (5)」「ひとづくり(1) ~ (5)」のうち、このプログラムのマインドの基本となる「ひらめきづくり(1)」について紹介する。

 授業概要を上に紹介したが、その名の通り、「ひらめきづくり(1)」は新しいアイデアを創発することを目的に、最終的なプレゼンテーションでは新しい事業計画を「企画シート」にして、①ターゲット②コンセプト③問い④ひらめき⑤技術というストーリーでまとめていく【右上図】。単なるアイデアの発表ではなく、大学におけるアカデミックな授業として展開していくため、探究の基本理論とともに計測や分析手法を学び、加えて現在の社会的課題やGAFAM(世界的に影響力を持つGoogle、Amazon、Facebook、Apple、Microsoftの頭文字を取った呼び名)の躍進事例なども理解した上で、グループワークを進める。授業を担うのは、理工学部長でプロジェクト・リーダーの岩尾徹教授と、産業界から招聘した講師陣【下一覧参照】。ものづくりに必要なアイデアの創出やベンチャー育成、SDGsに関連する企業活動などについてのスペシャリストで、授業外の個別面談では学生一人ひとりの潜在能力を引き出そうと、きめ細かな教育に力を入れる。受講生からは、自由にアイデアの出し合える授業を歓迎する声に加えて、「ディスカッションのやり方やひらめきを生むのに基礎となる知識、アイデアを出すためのメソッドをたくさん学べて有意義だった」「社会の評価軸に触れられた」などの声も多く、科目の目標がしっかり実現されていることがうかがえる。
 ここで構築されたマインドは、ものづくりの技術を支える理工系専門科目の選択においてだけでなく、後に展開される「ことづくり」「ひとづくり」の授業で、エネルギー問題、ポストコロナにおける産業界のDX、ゲームチェンジなど、近未来の予測を加えながら、より現実的な全体最適解を目指していくのにおおいに役立つはず。知的集約型社会を支える人材育成と、新しい大学教育のカリキュラムスタイルとして期待される新しいプログラムの姿が、いよいよ明らかになってきた。

杉浦正吾,SUGIURA,SHOGO博士(環境学)【特任教授】
大学院生時代に起業。以降、企業のソーシャル・コミュニケーション/SDGsブランディング/ESGコンサルティング、ESDプログラム開発などに従事。クライアントは、三井物産、東京電力、伊藤園、ミニストップ、大塚製薬、東京ガス、日建設計グループなど。地方創生視点で尾瀬国立公園の地域リブランディングを手掛ける。三井物産と開発のESD「サス学」は2016年日本環境共生学会活動賞、2020年「青少年の体験活動推進企業表彰」文部科学大臣賞受賞。三菱総研小宮山理事長とプラチナ社会形成における人材育成プロジェクト、プラチナマイスター、アカデミー運営にも従事。武蔵野大学客員教授。
株式会社プラチナマイスター代表取締役https://platinum-meister.com/
一般社団法人サステナビリティ・エンパワーメント代表理事https://sep-inc.co.jp/

岸和幸, KISHI,KAZUYUKI キシエンジニアリング(株)代表取締役
大学卒業後、IT企業でSEとして金融保険系のシステム設計・開発に従事。人間社会を支える生物多様性・生態系の大切さに気付き、2001年より(株)リコーの社会環境本部で、シニアスペシャリストとして生物多様性保全活動を推進。行政や NGOと協働した課題解決型活動は、国内外から高く評価され、生物多様性COP10では先進事例として紹介される。2012年独立後、「人と自然を調和しながら、持続的な未来を共創する」をテーマに、企業のサステナビリティ経営(コンサルティン グ、研修講師、レポート制作、ファシリテーション)を支援。得意分野は、歴史(高校3年共通模試・日本史全国5位)。環境省. 森林保全活動における民間企業とのパートナーシップ構築方策検討調査委員、JBIB(企業と生物多様性イニシアティブ)
R&D部会長、東北大学.生態適応コンソーシアム運営委員。共著「企業が取り組む「生物多様性」入門」。

瀬戸久美子,KUMIKO SETO コンテンツディレクター
大学在籍中に米国でジャーナリズムを学ぶ。卒業後は日経BP社に就職し、『日経ビジネス』記者や『日経WOMAN』『日経 TRENDY』副編集長などを歴任。柳井正氏やハワード・シュルツ氏など500人以上の経営者やリーダーをインタビューすると同時に、東日本大震災の現地報道にも携わる。日経WOMANでは2500人以上の働く女性たちのキャリアを追い、日経 TRENDYでは「ヒットを生むマーケティング」の観点から世の中の動きを分析。2019年に独立し、現在は国境を越えて「世界をよくする」に取り組むスタートアップやベンチャー企業を中心に取材を続けるほか、コンテンツディレクターやインタビュアー、ファシリテーターとして活動している。
日本外国特派員協会プロフェッショナル/ジャーナリスト・アソシエイト・Forbes JAPAN オフィシャル・コラムニスト

個に応じたSTEAM教育を ―教育の構造変容に期待

『分数ができない大学生』(※1)や「数学受験者は生涯所得が高い」の調査などで、ゆとり教育だけでなく、理数教育が軽視されていることに警鐘を鳴らしてこられた西村和雄先生。文系にもAIやデータサイエンスについてのリテラシーが求められるようになった今、「歓迎すべきことだが、どちらかに偏るのもよくない」と、STEM教育を一歩進めたSTEAM教育に注目されます。一方の杉本厚夫先生は、『“かくれんぼ”ができない子どもたち』(※2)などで、こどもを取り巻く社会の変容について警鐘を鳴らされるとともに、遊びやスポーツの教育効果に着目、OECDのEducation2030の描く教育の未来像に期待を寄せられます。お二人にSTEAM教育の可能性について語ってもらいました。

杉本厚夫先生:『かくれんぼ…』のタイトルを考えた際には『分数が…』から大いにインスピレーションをいただきとても感謝しています。

西村和雄先生:そうでしたか(笑)。

STEAMのAは、AIのA?

杉本:研究者の傍ら、教育実践として長年、子どもたちと関わってきましたが、最近気になるのが、《かくれんぼができない》だけでなく、キャンプの初日に「してはいけないことを聞かせて」と話しかけてくる子が多いことです。

西村:保護者から離れて、「家や学校ではできないことができる!」とは思わないのですね。

杉本:冒険できない、そもそも何事も自分で決められないんですね。

西村:自己決定力が育っていないとも言える。原因は何でしょう。

杉本:一つには、日頃から正解は一つではないということを教えられていないことが大きいと思います。

西村:日本は「人生の選択の自由度がすくない」との国連の調査報告もありますが、自己選択は成長して幸せな生活を送るのに欠かせない。そこで最近、私は同志社大学の八木匡教授と共同で、自己決定度というものが、幸福度に影響するのかを調べました【注1】。すると自己決定力には学歴の8.7倍、年収の1.4倍の影響力がある。また、スポーツでも、介護やリハビリ、勉強でも、自分で決めてやるのが一番効率がいい。もちろん誰もが自分で決めることができなければいけない、というのではありませんが。

杉本:他者に判断をゆだねないのと、他人に対してだけでなく自分に対しても嘘をつかない、周囲のウエルビーイング(Well-being)【注2】にも配慮するという要素を加えて、自立(independence)と区別して自律(self-discipline)性
という言葉を使います。スポーツで自己申告、self judgmentを尊重する競技はこれを大事にしています。イギリスで誕生したゴルフや、スコットランド生まれのカーリング等では、ファールをしたら自己申告しますね。

西村:ところでSTEAM教育が唱えられる背景には、AIの発達に象徴される情報通信技術の急速な発展、国内ではSociety5.0で求められる資質の育成が急がれることがありますが、こういう時代だからこそ、創造性はもちろん、自律性はこれまで以上に求められるのではないでしょうか。一時、シンギュラリティという言葉【注3】が話題になりましたが、デジタル社会の進化で人類すべてが幸福になるとは限らない。AIを使う側、AIに使われる側といった分断や、所得格差の拡大などの危機も孕んでいる。

杉本:自律性は、機械に使われない人間になるのにはまず必要です。

西村:使う側には強い倫理観が求められます。AIやロボットなどを戦争に使わないとか、バイオ技術で生命の尊厳を脅かさないとか。STEAMの「A」をliberal artsと解釈すれば[解説]、STEAM教育はまさに、自分で物事を判断し、自分で生き方を決める、何かへの従属から自分を自由にするための教育、あわせて倫理観も涵養するものということになる。当然、他者と協働する力や、利他の精神等の育成も含みます。
 このような教育は、社会的に成功する、あるいは幸せな人生を送るといったウエルビーイングの観点からも重要
であることが、われわれの行った「基本的モラルと社会的成功」の調査【注4】で明らかになっています。ここで明らかになった基本的モラルとは、「嘘をつかない」「ルールを守る」「人に親切にする」「勉強する(働く)」の4つ。これは哲学者のカントも言っていたことがその後わかりました。また経済学の生みの親であるアダム・スミスが、「利己主義」が経済行動の動機づけになることについて書いていることはよく知られていますが、別の本では、自分の行動は、想定した第三者の目から見て是認できるもののみが認められるとも書いています。つまり、利他主義を伴わない利己主義は長続きしない、基本的モラルを守る方が自分のためにもなるとも解釈できるのです。

杉本:これからの予測不能と言われる社会を生きていく上ではレジリエンスを育てることも大事ですが、そのことにもつながりますね【注5】

[注1] Kazuo Nishimura and Tadashi Yagi” Happiness and Self-Determination – An Empirical Study in Japan”, Review of BehavioralEconomics: No. 4, pp 385-419,2019
[注2] Well-being:良い在り方の意から、健康(WHO)や幸福の意に転用され現在に至る。SDGsの項目3にも掲げられている。
[注3] Singularity;技術的特異点。アメリカの発明家で人工知能研究の世界的権威であるレイ・カーツワイル博士らによる仮設。人工知能(AI)が人間の能力を超え、それにより人間の生活に大きな変化が起こるとされる時点。
[注4] 西村 和雄・平田 純一・浦坂 純子・八木 匡「基本的モラルと社会的成功」Quality Education 6、2014
[注5] 幼少期の「集団遊び体験」が育てるレジリエントな子――理不尽を乗り越えて(『児童心理』2016年1月号)の中で、杉本先生は、「保身と自己犠牲の理不尽を乗り越えるために、失敗のリスクを背負って挑戦することの体験を通じてレジリエントな子が育つ」「今、子どもたちの世界は理不尽なことに満ち溢れている。すぐに折れてしまったり、諦めてしまったりする子どもが、集団遊びを経験してレジリエントな子に育ってくれることを願ってやまない」などと書かれている。ちなみにレジリエンス(resilience)とは、「回復力」「弾性(しなやかさ)」を意味する。「レジリエントな」と形容される人物は、困難な問題、危機的な状況、ストレスといった要素に遭遇しても、すぐに立ち直ることができる。

STEAMのAはArtsのA、遊びのA?

西村:「A」を、音楽・絵画などの芸術と狭く解釈するとどうでしょうか。経済活動においてはアート経済などの表現もあって、デジタルプラットフォームが整備されていく中では、仕事のスタイルも働き方も変わってくる。中島さんの言うようにみんながアーティスト、あるいはデザイナーのように仕事ができるかもしれない。またイノベーションの創出、アントレプレナー育成などの観点からは、アート思考がまず重要で次にデザイン思考も求められる。特にアートは、全く新しい視点をわれわれに提供してくれるという意味で、社会・経済の変革やイノベーションの源泉になる。

杉本:教育においては、少し専門的な言い方をすると《機能》ではなく《構造》の変容を促すのにアートの視点がいると思います。長年、学校教育を見ていて思うのは、変わらないこと。今回のコロナ禍も、変化するための絶好の機会だったのに、現場の多くは何とか現状維持しようとしている。しかしコロナ禍を経験した今だからこそ、多くの課題を解決するために学校の構造自体を変える必要がある。西村先生は、自己決定を阻むものとして≪しがらみ≫の存在を挙げておられます【注6】が、なかなかそこから≪逸脱≫できない。
 そもそもデジタル社会が進化した今、知識を得る方法は学校以外にいくらでもある。そういう意味から、私は音・美・体こそ学校教育の中心にすべきと考えています。アートと言い換えてもいい。音・美・体には《遊び》の要素が強く、正解がなく、それ自体が自己目的的で、フロー体験(没入感)などを通じて自己決定力、さらにはレジリエンスなどを育てやすい。

西村:たしかに遊びは大事ですね。アートでもスポーツでも、勉強でもそうですが、楽しんで、遊びながらやっていく過程が最も成長を促すと言われています。

杉本:近年はその遊びが減ったこと、子どもたちがどんどん遊べなくなっていることが問題です。“かくれんぼ”だけではない。ただ、私はいわゆるゲームは遊びではないと考えています。それは、誰かが作ったルールで遊ばされているだけで、プレーヤーはルール(構造)を変えられないから。子どもはみんなが楽しく遊べるように、ルールを変更することで、創造性、クリエイティビティ―が育つ。

西村:あらゆる訓練法の中で優れているのが《遊ぶようにする》ことですからね。ただ、それがわかっている指導者は少ないかもしれません。学校では教える内容はもとより、教え方そのものの変革がいるのではないでしょうか?

杉本:OECDは2015年からEducation2030プロジェクトをスタートさせましたが、その成果の一つが、2019年に日本でも仮訳が出た「OECDラーニングコンパス2030」。ここでは生徒が授業を受動的に受ける《産業形態としての学校教育》を根本的に見直し、子どもたちには新たな価値を創造する力、対立やジレンマを克服する力、責任ある行動をとる力などを身につけてほしいとしています。19世紀、20世紀を通じて学校教育の目的は、産業社会を支え、発展させる人材の育成、つまり社会の要請に応えようというものだったが、これからは未来を創造できる、不確実な未来を切り拓くことのできる人材育成に転換しなければならないと。そのためには、学びは学習者中心(主体的なもの)で、音・美・体のようにプレイフルでワクワク感に満ちたものでなければならない。それが個人のウエルビーイング、社会のウエルビーイングをもたらし、SDGsの達成にもつながると。
 その意味では、STEMにAが入ったことで、これからの社会を創っていく教育になっていくのではないか。また学校教育に閉じないSTEAM教育にはその可能性を感じます。

西村:STEAMと言うまでもなく、やはり高校時代までは、将来の選択肢を減らさないためにも幅広く学んでほしい。2002年から、大学入試で数学を選択した人の方が、非選択者より、社会へ出てからの収入が高いという調査結果を発表してきました【注7】が、これは、早目に数学を捨てて受験科目を絞り込むことは将来の不利益につながるとも解釈できる。
 大事なことは、「個に応じたSTEAM教育」を目指すことです。確かに広く学ぶことは発想の基をつくることにつながりますが、かといってすべてが得意になる必要はない。広く学ぶ中で、得意なことを発見して深めていく。そして、自分の性格を含めて、個性を自覚していく。公教育がその方向に向かっていけるのならいいのですが、今の学校、教員、入試制度でそれをいかしていけるかは疑問です。民間の教育機関がそれを先取りして、「個に応じたSTEAM教育」を提供していくことで、公教育も変わらざるをえなくする方が早いのではないかとも思っています。実は2013年から、大阪市で教育委員、その後は顧問として教育に関わっていますが、ここでは、規範意識と学力をコアとする、全人的な「個に応じたSTEAM教育」を目指しています。

【注6】 「自己決定できない人は・・・自分が何に縛られているのかに気づいていないと思います。  キャリアに主体性、オーナーシップを持つには、自分を縛るものを失うことが第一歩。本業以外の世界を持てば、それまで気づかなかった本業でのしがらみが見えてきます」(東洋経済オンライン2020.7.15[コロナ後キャリアは自分で決めるが鍵な理由]より) 【注7】 浦坂純子、西村和雄、平田純一、八木匡「数学学習と大学教育・所得・昇進」日本経済研究46, 2002年(日本経済研究センター)その他。

21世紀、学びの主役は君だ!

(株)steAm 代表取締役社長
(株)STEAM Sports Laboratory 取締役
ジャズピアニスト・数学研究者・STEAM教育者・メディアアーティスト
中島 さち子 氏

(株)steAm 代表取締役社長  (株)STEAM Sports Laboratory 取締役 ジャズピアニスト・数学研究者・STEAM教育者・メディアアーティスト  中島 さち子 氏 大阪・関西万博テーマ事業プロデューサー(「いのちを高める」)。内閣府STEM Girls Ambassador。現在は主に音楽・数学・STEAM(教育)・メディアアートなどの世界で、国内外にて多彩に活動。ニューヨーク大学Tisch Schoolof the Arts, ITP (Interactive Telecommunications Program)修士。国際数学オリンピック金メダリスト。明治大学先端数理科学インスティテュート(MIMS)/東京理科大学客員研究員。文部科学省 教育研究開発企画評価会議協力者。文部科学省中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会委員。経済産業省『「未来の教室」とEdTech』研究会研究員。米日財団日米リーダーシッププログラムフェロー。フルブライター。主な著書に『人生を変える「数学」そして「音楽」』『音楽から聴こえる数学』(講談社)絵本『タイショウ星人のふしぎな絵』(絵:くすはらじゅんこ、文研出版)他、主なCDに中島さち子PianoTRIO ”Rejoice”“ 希望の花”他。フェリス女学院高等学校出身。

 20世紀終わりから台頭したインターネットは、劇的に世界のあり方を変えました。誰もが簡単にさまざまな知にアクセスできるだけでなく、自ら(出版社やテレビなどを通さずとも)世界に発信でき、表現でき、つながり、創造・共創できる。21世紀には、YouTubeやSNSなども誕生しました。一方向から双方向への時代へ…これは学びのあり方・働き方、そして人々の生き方・文化を大きく揺るがせています。
 私は、21世紀は《創造性の民主化時代》と考えます。 AI時代とは、一人ひとりがより多様な創造性を発揮できる/すべき時代。ただ、社会構造や文化はまだその時代の流れ・ニーズに追いついていません。そのため、世界では、21世紀初頭からSTEM教育を推進し、何よりも「一方向・知識暗記型の、正解が一つの学び」からの脱却、「探究的な、オープンエンドな(答えが無数の,多様に開いた)問いを扱う学び/実社会や日常の課題を扱うプロジェクト型の学び」への移行を目指してさまざまな試行錯誤が国単位で行われてきました。  
 STEMとは、Science(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学・ものづくり)、Mathematics(数学)の頭文字をとった造語ですが、その背後にある思想はいわゆる「理数教育」とは異なります。「科学や数学を学ぶ」だけでなく、「科学者や数学者、コンピュータ科学者のように考え、エンジニアのように創る」、つまり根底には、探究や試行錯誤、発見や創造の喜びの体験をいかに伝えるかを模索しようという考えがあります。日常の中で、さまざまな疑問や好奇心を持ち、時に仮説をたてて実験・創造し、試行錯誤する――、その過程にこそ学び・探究のおもしろさがあると。
 近年はここにArt(芸術・デザイン)またはLiberal Arts(リベラルアーツ、日本では一般的に教養教育と訳される)のAを加えたSTEAMという言葉も世界的に浸透しています。アートの本質とは「自ら世界を見る新しい視点・問いを生み出すこと」。つまり、21世紀を生きる学習者は、「自ら問いや視点を生み出し」かつ「その解決法や発想を自ら形にしようと模索する」ことが求められます。その結果、学びはオープンエンドな問いを扱う探究となるのです。
 もちろん「知」も大切です。何かを知ると、それに基づいて創ることが啓発され、創ろうとする中でさまざまな専門知に立ち返る必要がでてくる。つまり「創る」と「知る」との循環が生まれる。中核にあるのは各自の「ワクワク」。つまり、
自分の興味・関心から発したさまざまな学びの中で、何かを生み出そうとする原動力となり、人はその過程でさまざまな知に出会う。もちろん、これまでに先生方や学校が模索してきたことは決して無駄にはならない。ただ、学び方やガイドの仕方、環境の作り方が少しずつ変わるだけ。各自が学びの主役になる。学びは本質的にプレイフルなものであり、それは生涯にわたって私たちの関心事であり続ける。
 世界では,STEM・STEAMはK 12(幼小中高)・大学以上の全年代で重視されています。今や、すべての人が《研究者》や《発明家》、《芸術家》になれる時代がやってきています。高校生のみなさんもぜひ、「(人より)できる・できない」などにあまりとらわれず、自分の心が少しでも動き、躍るものに出会ったら、専門家のように一歩踏み込んで、うんうんうなって探究してみてください。将来何になるにしろ、一歩一歩踏み込んで試行錯誤した体験は必ずや自分の中で「価値」になり、多様な点と点がユニークにつながって、きっと、いつか思わぬ形でいかされます。人より遅くても、なかなかできなくてもいい。悪戦苦闘した体験こそが、研究者・芸術家・発明家としてのあなたを支えてくれます。
 21世紀の学びの主人公はあなたです。オバマ元大統領がこどもたちにSTEM推進のスピーチの際に言ったように、「未来を創るのもあなた」なのです。ぜひ、ワクワクドキドキする学び(創造・生き方)を、自分たちのペースや感性にあわせて,時に仲間と協働しながら、さまざまなことに、さまざまなアプローチで本気で楽しんでみてください!

2022年9月に創立130年を迎える学校法人松蔭女子学院

新しい女子大学の形を求めて

必須のITCスキル、コロナ禍での経験、試行錯誤も生かしたい

女性活躍の社会が推進されているが、女性の置かれている状況はまだまだ厳しい。その中で安心できる場、落ち着いて学べる場を提供することが、女子大の不変の使命だと思う。  ただ、時代が大きく変わる中で求められるスキルは変化しているので、その対応を急ぎたい。  中でも社会の高度情報化、Society5.0へ向けて、大学の情報化と学生一人ひとりにICT(Information and Communication Technology:情報通信技術)のリテラシーをつけてもらうことは喫緊の課題だ。ICTは、力も要らないし場所も問われない。ジェンダーレスで、女性に向いている側面も多く、これまでの男性中心の産業構造を変える可能性が期待される。  そこで2022年春からは、入学者全員にPCを保持してもらうBYOD(Bring Your OwnDevice:自分のデバイスを持ち込む)によるICT教育を展開する。そのための教室や自習室の整備も急ピッチで進めている。また全学生に対して、情報技術を理解し、主体的に活用できるようになるとともに、社会の課題を見出して解決方法を提案できる力をつけることを推奨する。具体的には『データ理解と統計科目』と呼ぶ科目群を用意し、2021年後期からは、その第一弾として、全学共通の『現 代社会とデータ』がスタートする。  この一年半、本学でも全力でオンライン、ハイブリッド、ハイフレックスによる教育を模索してきたが、こうした経験、試行錯誤がICT教育に弾みをつけてくれたのは確かだ。教員だけでなく、学生も機器やソフトの使い方に習熟したし、ICTの使い方や、ポストコロナにおいても有効な学び方についても数々の示唆を与えてくれたからだ。  一方、《教育の松蔭》のキャッチフレーズのもと、積極的に展開してきたもう一つの柱である課外授業やPBL(Project BasedLearning)、地域貢献型や産学連携活動による課題解決型のアクティブラーニングなどは、コロナ禍で停滞を余儀なくされた。ただ、コロナ禍を特殊な要因と考えれば、ここまでの一連の学部の新設・改編も含め、狙いとしてきた教育の質の向上に向けた取り組みは、着実に成果を上げていると手応えを感じている。  コロナ禍はたしかに、ICT教育の推進にとっては追い風ではあったが、教育にとってリアルの効果がいかに大きいかをあらためて認識もさせてくれた。  130年の歴史の中でわれわれは、第二次世界大戦や阪神淡路大震災という大きな災禍を克服してきた。今またコロナ禍という新たな災禍の中にあるが、それを克服して教育の松蔭の歩みを一層加速していきたい。

キャンパスから六甲アイランド、大阪湾をのぞむ

学院創立130周年の節目の年に、これまでのモットーである“A grain of mustardseed”(一粒のからし種)”の成長を動的に表現するスローガンが必要であると新たに作成された。一粒のからし種とは、それに姿かたちを変えながらの成長を期 待して神の愛と恵みの息が吹き込まれるならば、やがて鳥が枝に巣を作るほどの木になるというイエスの約束に由来する(新約聖書「マタイによる福音」)。130周年スローガンには、松蔭女子学院という場での学びと出会いを通して、絶えず自 分を見つめ直して古い殻を破り、新しい自分を発見することによって個性を確立し、社会に貢献する、光輝く女性への成長を促すという教育理念を込める。


130周年記念ロゴマーク
130th KOBE SHOINは、神戸市北野町で産声を上げ、130年の歴史を持つ松蔭女子学院を意味する。十字架は人間の弱さや苦しみに寄り添い、人間の罪深さを明らかにするために身代わりとなって亡くなったイエスの十字架。その4つの方向は、Heart・心、Soul・精神、Mind・思い、Body・全身を表わし、心を、精神を、思いを尽くし、全身全霊で神を愛すとともに、人間同士、互いに愛し合うことが最も大切な戒めであることを表す。オリーブの葉は、ノアの方舟から放たれ戻ってきた鳩が口に加えていたもので、大洪水が終わり、世界に再び平和が回復したしるしとされ、円環をなしているのは、神の無限の愛を表わす。

オリジナルの「神戸松蔭タータン」を素材に学生がデザインした洋服。タータンの5色は130年の歴史を象徴。2021年3月にスコットランドの政府機関において、正式なタータンとして登録された。

神戸松蔭タータン

130th KOBE SHOINは、神戸市北野町で産声を上げ、130年の歴史を持つ松蔭女子学院を意味する。十字架は人間の弱さや苦しみに寄り添い、人間の罪深さを明らかにするために身代わりとなって亡くなったイエスの十字架。その4つの方向は、Heart・心、Soul・精神、Mind・思い、Body・全身を表わし、心を、精神を、思いを尽くし、全身全霊で神を愛すとともに、人間同士、互いに愛し合うことが最も大切な戒めであることを表す。オリーブの葉は、ノアの方舟から放たれ戻ってきた鳩が口に加えていたもので、大洪水が終わり、世界に再び平和が回復したしるしとされ、円環をなしているのは、神の無限の愛を表わす。

文理融合から知の統合へ世界水準の研究大学を目指して

梅原 出 先生
Profile
1987年3月富山大学理学部 卒業、1989年3月同大学院理学研究科修士課程 修了。1992年3月筑波大学大学院工学研究科博士課程 修了。1992年4月横浜国立大学工学部 教務職員、1994年4月同 助手、2000年7月同助教授、2009年10月横浜国立大学大学院工学研究院教授、2019年4月横浜国立大学 理事(研究・評価担当)・副学長、2020年4月同(研究・財務・情報・評価担当)・副学長。2021年4月より現職。専門は固体物性物理学‐超伝導、磁性。桃山学院高等学校出身。


大学とは

コロナ禍で再認識されたこと、「大学とはコミュニティー」

2020年度は、手探りで始めたオンライン授業等、激動の一年だった。しかも、学生に不自由を強いるだけでなく、前例のない個別試験の中止等で受験生・保護者、高校関係者にも影響を与えるなど、心の晴れる日はなかった。また、これほど「大学とは?」と考えさせられたこともなかったと思う。
キャンパスのメインストリートに学生が一人もいない日が何カ月も続いたことには心が痛み、大学人になって30年、初めてある種の寂寥感も感じた。これまで当たり前とされてきた大学のコミュニティーを機能させられないもどかしさもあった。大学とは、教育・研究を通じたコミュニティーであることをあらためて痛感した。
同じことは、昨年の7月の段階で、本学の規模としてはかなりの寄附金が集まったことでも気づかされた。多くの卒業生からたくさんの支援をいただき国からの助成とは別に千名を超える困窮学生に一人当たり一律5万円を支給できた。大学とは卒業生も含めたコミュニティーなのだ。
今年に入り、キャンパスは昨年度に比べいくらか落ち着きを取り戻している。心配された入試も、大幅な志願者減とはなったが、5学部すべてから、例年と比べて入学者の状況に変化はないとの報告を受けている。これは予備校等の追跡調査とも符合しているようだ。
予想外だったのは、3月末ギリギリに私の記憶では初めて実施した2次募集で、80名の定員に1300名を超える志願者が集まったこと。本学が底堅い受験者層に支えられていること、またいかに個別試験が大切かを実感した。来年度入試では安全、安心を担保した上で従来通り個別試験を実施する予定だが、コロナ禍での経験を忘れることなく、今後の大学運営に生かしていきたい。またコロナ禍の影響を一番強く受けている今の2年生に対しては、今後も様々な角度から引き続き温かく見守っていきたい。

横浜F・マリノスから寄贈された人工芝と夜間照明設備。また常盤台インターナショナルレジデンスは、建設・運営をすべて外部事業者で実施。経営そのものも外部委託し、税金を投入せず土地の有効活用を図るという国立大学の新しい手法」と梅原学長。

独自の教育改革を加速

現行の大学入試制度の中では、首都圏に位置し、かつ後期日程の定員を多く維持している大学としては、入学した学生にいかに学ぶ意欲を与えるか、言いかえればいかに教育力を高めるかは長年の課題だ。本学では前期日程、後期日程それぞれによる入学者について、入試の成績と在学時の成績の相関を調べてきた。ここで明らかなのは、入学後、どれだけしっかり勉強するかが卒業時の成績を左右するということだ。地頭が良かったり基礎学力がしっかり身についた学生が多いのだから、当然と言えば当然だが。そこでキャリア教育の導入も含め、10年ぐらい前から教育改革を加速してきた【下コラム参照】。今や、企業からも高い評価を得ているから(※1)、冷静に出口まで見通せば、けして最難関校にひけを取らないとの自負がある。
入学後の科目も工夫している。私の専門は物理だが、多くの学生にとっては、社会に出て何の役に立つのかが見えにくい学問かもしれない。手に取るようにわかる機械系などとは好対照だ。そこで1年のうちから、『物理科学と先端技術』などと銘打って、企業から技術者を外部講師として招き、物理を学んでおくと企業に入ってからどれだけ役に立つかを講義してもらっている。もはや、物理に入ったから物理しかしないのではすまされない時代でもある。また、神奈川県とタイアップし、全学部を対象とした半期で15回、県の職員による『神奈川のみらい」も開講している。
PBL(Project based learning:課題解決型学習などと訳される)など、調べて発表する授業も増やしている。どれも学科単位による地道な取組だが、こうした努力が徐々に実りつつある。

※1 「人事が見るイメージランキング【日経HR調べ】」では、2020年2位、2021年6位

新たに二つの方針を加え、知の統合を進めたい

学長就任時に新たに立てた方針は二つ。一つは《小さな大学》としての強みを発揮すること。5学部6大学院体制で10,000人の学生を抱えながらなぜ?と思われるかもしれないが、本学は教職系、工業系、商業系の3つの専門学校が戦後まとまってできた大学で※2、文学・医学などはカバーしていない。つまり大規模総合大学とは違うという意味だ。そこで、自前でないものは外に求める、つまり他大学との連携に徹していくべきだと考えている。「オープンサイエンス」「オープンイノベーション」※3がキーワードとされる今は、その絶好のチャンスではないか。特に力を入れているのが医工連携。理工学部では「副専攻プログラム(医工学)」も設ける。今の医療は産業界の提供する機械なしでは成り立たない。まさに100年の伝統を有する本学の工業系の出番ではないかと思っている。
第2の方針は、地域との連携の強化。横浜市、神奈川県にある本学だが、今後はそれを強みとする意識をより強化していきたい。地方国立大学(東京からの距離感でそう呼ぶとして)の多くは、法人化(※4)以降、生き残りをかけ地域との連携強化に涙ぐましい努力をしてきた。本学の場合は、首都圏にあって地方をイメージしにくい分、これまで以上にその意識を高め、さらに取組を強化していかなければならない。神奈川県は長洲一二知事以来、科学技術政策においては、KSP(サイエンスパーク)、やKISTEC(神奈川県立産業技術総合研究所)等の開設など、先進的な取組をしてきているから連携のメリットは大きい。神奈川ローカルの連携は世界へつながる可能性を秘めている。
一方で神奈川県は、横浜、川崎、相模原という3つの政令都市とともに、三浦半島や県西には過疎と高齢化に悩む地域もかかえる。スケールが大きく、直面する課題も様々で、ある意味で日本の縮図とも言える。地域のこのような課題先進性ともいうべき特性に、本学の教育・研究をいかにコミットしていくか。それをつきつめていくことは、日本、世界にコミットしていくことにつながるはずだ。
もちろん基礎自治体の横浜市ともしっかり連携していきたい。これまで各教員による連携は様々あったが、大学全体として、より強化したいと考えている。
全国区で基礎研究を担保するという国立大学の原則はこれまで通り尊重しながら、小回りを利かした地域連携にもバランスよく取り組んでいきたい。

※2 1876年設置の横浜師範学校(後に神奈川師範学校)、1920年設置の横浜高等工業学校(後の横浜工業専門学校)、1923年設置の横浜高等商業学校(後の横浜経済専門学校)。
※3 大学や企業が、より大きな成果を狙って、単独ではなく他と連携して行う科学研究やイノベーションに向けた取組を指す。
※4 2004年4月以降、それまで文部科学省の直轄組織だった国立大学は、それぞれ独立大学法人に移行した。

入試について

先ごろ、10年近くに及んだ大学入試改革論議は、そこで示された改革案を各大学が個別試験の中で実現することと結論付けられたようだ。もちろん入試改革が止まったわけではない。ただ現段階では、個別試験が重要であるということ以外にコメントはできない。
選抜方法の多様化については、たとえば教員志望者が受験する教育学部では、教員になりたいという意欲も含めて総合的に評価するのはいいと思う。一方、理工系では、たとえば一般的に数学のできない物理学者はいないように、学部によって必要な学力を担保しそれを測る入試を考えていきたい。
また、本学の学生が首都圏にある私立大学の学生と比較して大人しいことを捉えて、理系でもアピール能力、コミュニケーション能力を入試で問うようにしてはどうかというような意見も学内にあるが、コミュニケーション能力は学会での発表の機会を増やすなど、大学へ入ってからでも鍛えることができる。入試方法は、あくまで育てたい学生像から考えるべきだし、入試だけではなく、入学以降の教育改革にも引き続き力を入れていきたい。

受験生へのメッセージ

知の統合と世界水準の研究大学を目指しているから、しっかり学問、研究に打ち込みたいという人に目指してほしい。環境は抜群。新たに本学の名称の付いた駅(※5)もできて東京へも直結するようになり、首都圏生活に触れることもできる。
私自身の受験時代を振り返ると、浪人時代も含め様々な思い出はあるが、やはり大事なのは大学へ入ってからだとつくづく思っている。大学でできることは勉強だけではない。入ってから楽しく大学生活を送れるように、けして受験をゴールとは思わないことだ。
高校、大学時代を通じて勧めたいのは読書。乱読でいい。私は学校の勉強では、数学・物理は好きだったが本ばかり読んでいた。しかしそれが今、大いに役立っている。

※5 羽沢横浜国大駅:2019年11月30日開業。相鉄、JR直通線の共同使用駅。


先進的な文理融合を図る大学院『先進実践学環』は、「応用AI」「社会データサイエンス」「リスク共生学」「国際ガバナンス」「成熟社会」「人間力創生」「横浜アーバニスト」の7つのユニークな研究テーマを設け、文系の学生は理系を、理系の学生は文系を学べるというように、これまで縦割りの多かった大学院に横串を刺す。「もちろん他大学にも『学部・研究科等の組織の枠を越えた学部プログラム』はあるが、学年定員42名と規模が大きい」と梅原学長。学部教育でも経済・経営の専門性と高度なデータ処理・統計分析を修得した人材を育てるDSEP(Data Science教育プログラム)、法学を中心に経済、経営、データ分析などを幅広く学ぶLBEEP(Lawcal Business Economics教育プログラム)が今春からスタートし、経済学と経営学の両方の専門性と英語による実践的コミュニケーション能力を育成するGBEEP(Global Business and Economics 教育プログラム)なども以前から開講している。ただ、「いずれにおいても専門性は担保したい。そうでないと大学で学ぶ意味がない」と梅原学長。