トピックス|京都産業大学 生命科学部
2025年秋、生命科学の分野にゲノム革命に次ぐ第二の革命をもたらすといわれるクライオ電子顕微鏡(以下クライオ電顕)※1を西日本の私立大学で初めて導入した京都産業大学。「良い教育は良い研究から」「見えないものを自分の目で見る感動を学生へ」をキャッチフレーズに、「全国的にも例がない、学部段階での電子顕微鏡解析の体験授業(ハンズオン※2)」をこの秋から始める。あらためてクライオ電顕の威力とは、それを使ってどんな授業ができるのか、担当する林到炫先生に聞いた。
※1 試料の水溶液を急速に凍らせ、氷の結晶をつくらせずガラス状の氷に閉じ込める。これを液体窒素温度などの極低温に保つことで、電子顕微鏡内の真空中でも水を保ったまま観察できる。クライオ電子顕微鏡法を開発したジャック・デュボシェ(スイス)、ヨアヒム・フランク(米)、リチャード・ヘンダーソン(英)の3名は、2017年にノーベル化学賞を受賞している。
※2 講義を聞くだけでなく、自分で操作や作業を行いながら学ぶ学習形式。hands-onは英語で「実際に手を動かす」の意で、体験を通じて理解を深めることが狙い。
クライオ電顕が映し出した画像を加工すると、薬がタンパク質受容体のどこと作用し合っているかまで見える。
林先生にとってのクライオ電顕とは?
――結晶づくりに3年半! 凍らせて見る驚異的な手法に感動。X線結晶構造解析からクライオ電子顕微鏡による構造解析へと転身
開口一番、「学部でこういう技術を学べる大学は、ほかにはないと思います」と力を込めるのが林先生。脳内の情報伝達をになうタンパク質――神経伝達物質を受け取る受容体とそれを運ぶ輸送体――を研究し、その形をクライオ電顕を使って原子レベルで見つめる研究者【コラム❶】で、以前は大学院や製薬会社でX線結晶構造解析を行ってきた。
林先生によれば、タンパク質のかたちを見る手法としては、1950年代から発展してきたX線結晶構造解析が長く主流だった。それがクライオ電顕の登場により、多くの研究者がこちらに移ってきたという。なぜならX線で構造を見るには、タンパク質をまず、食塩や氷のように分子が規則正しく並んだ《結晶》にしなければならない。ところがこれには正解がなく、数千もの条件をひとつずつ試すことになるからだ。先生自身、細胞膜にある膜タンパク質で、結晶ができないまま3年半を過ごしたことがあるという。この工程が、クライオ電顕では試料を凍らせて、そのまま見ることができるため不要だ。細かさ、つまり分解能ではX線結晶構造解析のほうが高い場合が多いため、扱う分子に応じて使い分けは必要だが、「計画を立ててから1年もたたないうちに構造まで見えるようになってきているので、そのスピード感は比べものにならない」と林先生は言う。
クライオ電顕が拓く新しい研究開発の世界。今、創薬で起こっていること
林先生によれば、クライオ電顕がいま最も使われているのは創薬の分野。先生自身も企業研究者として、その創薬の現場に身を置いたことがある。現在開発される薬には、細胞の表面にあるタンパク質受容体にはまり込み、その働きを変えるタイプのものが多い。この仕組みを説明するのによく使われるのが、薬を《鍵》、受容体を《鍵穴》とするたとえ。両者は精密に調節されていて、どの鍵でもどの鍵穴を開けられるわけではない。「わずかな違いでも、薬効が数百倍上がったり下がったりしますし、伝わるシグナル経路まで変わることがあります」と、林先生は極めて複雑な関係を強調する。
しかもこの鍵穴というのは、「実は長いあいだ《形の見えない》ものでもあった」という。鍵穴の中でも数の多いのがGタンパク質結合受容体(GPCR)。現在、私たちの飲んでいる薬の3割がこれを標的にしていると言われるが、「これは鍵穴のかたちが見えるようになったことで、それに合致する薬を設計しやすくなったからだ」と林先生【イラスト】。
クライオ電顕は今、創薬業界に新たな知見をもたらし、イノベーションにつながる研究を促すものとして期待を一身に集める。
学部生がクライオ電顕データを自ら解析する、『構造細胞生物学』の授業
このような最新機器を学部生にも体験してもらいたいと、導入の発表時から掲げていたのが京都産業大学。学部段階からクライオ電顕に触れることは、研究へのモチベーションを高めるだけでなく、大学院段階での研究や、その先の就職活動(例:創薬企業など)にもつながる可能性がある。
この秋から3年次生対象に始まる『構造細胞生物学』(週1コマ、全15回)がそれで、タンパク質の構造を手掛かりに、細胞の働きを分子レベルから理解するのを目的とする。
前半ではタンパク質の構造と機能の関係について体系的に学んで理解を深め、細胞機能を統一的に考える視点を身につける。基礎の習得とはいえ、アクティブラーニングやディスカッションを多く取り入れ、実務経験者の強みをいかした展開を予定している。
後半で力を入れるのが、クライオ電顕による構造データの画像解析。クライオ電顕は一晩で5,000 〜 6,000枚の画像を取得するが、1枚毎に、さまざまな向きのタンパク質の粒子が数百個ずつ写っており、仮に1枚に400個とすれば一晩で200万個になる。測定の場に立ち会った受講生は、その後、各自のパソコンで、画像に写った大量のタンパク質粒子をコンピュータで切り出し、向きの近いもの同士に分類して重ね合わせ、2次元の平均像をつくったうえで、3次元の像を組み立てていく。そして最終的には、自ら解析した3次元像を画面で回して見るといったように、コンピュータを用いて構造情報を可視化し、それを解釈してみることで、構造から細胞機能を説明するための基本的な考えを身につける。
この授業の意義について林先生は、「自分の研究結果である《自分のタンパク質》の姿を初めて自分で見る面白さがあり、それが将来まで続く研究の原動力となる可能性を秘めています。僕自身、最初に研究していたタンパク質の形を見た瞬間の興奮は今でも忘れられません。それもあって、これまで研究を続けてきたと言っても過言ではありません」と語る。
もちろん、装置を動かすコストは、学術利用でも測定には1日10万円近くかかると言われる。「しかしそれでも、研究室に配属される前の学部生にはこの感動を味わってほしい」と林先生。また「こういう技術を経験できれば、就職活動にもつながる可能性があるのではないか」とも話す。
ノーベル化学賞受賞者が京都産業大学で講演!
研究には楽観主義も欠かせない。
脳の高次機能の解明にはまだ30、40年はかかる
2026年7月2日、京都産業大学の国際シンポジウムには、クライオ電顕の開発で2017年のノーベル化学賞を受賞したリチャード・ヘンダーソン博士も招かれた。博士は「これから最も重要な研究対象は何か」との学生からの質問に対しては脳を挙げ、「イオンチャネルやGPCRのかたちがわかっても、それが記憶や学習といった高次の働きにどうかかわっているのかはまだ誰にもわかっておらず、解明にはまだ30年から40年かかる」との見解を示した。また別の質疑では、学生に対して「楽観主義者であること。実験がうまくいかないときには、少し変更を加えるだけで事態は好転するはずだと考えること」と勇気を与えてくれた。



