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OPINION

16歳からの大学論 |「問い」の哲学

文:宮野公樹

初出: 大学ジャーナル Vol.141(2021 年 2 月)

宮野 公樹先生
京都大学
学際融合教育研究推進センター
准教授

プロフィール
1973年石川県生まれ。2010~14年に文部科学省研究振興局学術調査官も兼任。2011~2014年総長学事補佐。専門は学問論、大学論、政策科学。南部陽一郎研究奨励賞、日本金属学会論文賞他。著書に「研究を深める5つの問い」講談社など。

この度、私なりの問いの哲学をまとめた「問いの立て方」(ちくま新書)を上梓いたしました。構想三年の完全書き下ろしです。記念して、序章の前半部分を掲載することにしました。本文にも書いていますが、具体的な場面や事例について多少触れてはいるものの、ノウハウめいた方法論や読後直ちに使える答えのようなもの、それらを書こうとした本ではありません。それならば、「問いの立て方」というタイトルが間違いなのでは?と思われたかも知れませんが、「いい問いの立て方」をまっとうに考えた結果がいわゆる方法論ではなかったという結末であったゆえ、どうしても仕方のないことなのでした。本書を読んでガッカリされては申し訳ないので、ノウハウや答えを求める方にはご遠慮いただき、あえていうなら、しっとりと静かに自分と向き合う、そういう時間を大事にする方に手にとって頂ければきっとこの本も報われると思います。

序章

「いい問いの立て方」を考えるにあたり、直ちに三つ、思いつくことがあります。

一つ目は、「いい」という言葉の意味。いいとは、「良い」か「善い」か。前者なら、基準なり指標なり、何かしらの尺度が必要となります。二つ目は、「問い」とは何か、ということ。調べれば答えがわかる問いもあれば、答えなどない問いもある。前者は「問題」や「質問」と呼ばれるものだろうし、後者は「課題」や「テーマ」、「目標」の類いとなるでしょう。三つ目は、そもそも、いい問いの「立て方」という何かしらの方法論があるのか、ということ。言い換えるなら、いい問いを見つけようと思って見つけられるような問いが、果たして「いい問い」であるのか、という疑問です。

のっけから元も子もない物言いですが、そもそも論から考えるような思考の仕方こそが、ほんとうの「いい問い」を持ちうる唯一の方法と考えます。目新しいハウツー的なやり方も大事ではありますが、むしろそういうやり方を生む思考のほうがより根本にあるのは間違いないことですから。

さらに、このまま筆を続けて、

それでは、本書では「いい」を良い、「問い」を課題、と設定した上で考えていきますね。

という風にはしたくありません。確かに定義や境界条件の設定により、より厳密かつ正確な議論ができるでしょう。今日においてよしとされるロジカルとはそういうことですし、昨今はエビデンスベースという言葉もよく目にします。

しかし、私はそのやり方にてほんとうのところでの 「いい問い」を掴めるようになるとは思えません。ロジカルをよしとするのも、ロジカルが良いという考えがあってのこと。なぜロジカルであったりエビデンスベースであったりすれば我々は正しいと思ったり、納得できると思ったりするのか。ロジカルを否定しているのではなく、ほんとうの「いい問い」を考えるにあたっては、そもそも論の果てまで考える必要があると思うのです。

では、「いい問いの立て方」をどのように考えていくのか。それは何なのか。

それは私にもわかりません。私は答えや意見を持っていません。ただ、確固たる考えはあります。どう「確固たる」かというと、本気でほんとうに「いい問いの見つけ方を考える」なら、誰がどう考えてもそう考えるだろうという考えがあるということです。したがって、本書を読んで頂いているみなさまといっしょに、暗闇のなか手探りで探し物をみつけるような、そういう思考の追体験ができるはずです。言うなら、それが可能かどうかが、私の挑戦でもあるわけです。我ながら大胆な挑戦とは思いますが、試みる以上はあらかじめ本書のスタンスをご理解いただくことに努めようと思います。

気の利いたアイデア的な何かしらコロっとした答えめいたものを望まれる方には本書は向いてないかもしれません。課題は分割して考えなさい、こういう問題にはこういう別視点を入れてみなさい、テーマにちょっとした矛盾を含めなさい、解決策に物語性を入れなさい・・・といった「私(著者)は答えをもっている」というスタンスの本ではありません。そのような内容は、私からすると、どうも「こうだからこう」というようにインプットとアウトプットを直接的、物理的にとらえすぎのように思えます。そのインプットとアウトプットは、私からみれば、いずれも「結果」です。インプットも「それをインプットしよう」と考えた結果だからです。つまり、結果をどうにかしようとして結果だけを扱っているように見えるのです。なぜそのアウトプットを求めるか、なぜそのインプットなのか、といったような「問い」の背景を十分に踏まえてこそ本質的な「いい問い」に迫れると考え、本書では、それら「結果」をもたらす理由や原因にこそ着目します。そのほうが結果に与える影響は断然大きいはずです。

もう一つの本書のスタンスは、「いい問い」を意味合いや場面で分けずに考えていくこと。その理由は、「いい」と「問い」という言葉の多義性にあります。

これは、我々が素朴に求める「いい問い」というものは、「良い」か「善い」かにすぱっと二分できないものではないかと思ったためです。確かに言葉(この場合、単語という意味)が違うから意味するものも違うのは当然です。しかし、我々が日常生活において「あ、これはいい!」と思うとき、良いと善いの違いをそれほど意識していません。もっと漠としたもの、良いと善いの混在。それが「いい」の本来の性質ではないかと思います。

次の「問い」もまたそもそも定義しにくい性質のものです。先に書いたとおり、「問い」の言い換えとして、質問、問題、課題、目標、テーマなどいくつかあげられます。そしてそれらは明確に区別しづらい。問題がそのまま目標であったり、課題をテーマとして扱ったり、我々は日常的にそのように「問い」という言葉を使っています。(なお、問いの性質を特定させるのは、その問いの「場(形式)」となるでしょう。例えば、学術的研究会でとりあげる学問的な問い、ワークショップで対話を活発にさせる問い、新規事業開発にて世間で注目を集めるための問い。このような場に依存して問いの性質は限定され、我々はスムーズに「問い」という言葉を使っています)

以上、この二つの理由により、本書では、「いい問い」を意味合いや場面で分けずに真正面から扱います。

場面ごとに違うその場その場の「いい」と、あらゆる場面でも共通して絶対的に「いい」のは、どちらのほうがより「いい」かは、言うまでもないことですから。これはきっと抽象度の高い話になるでしょう。しかし、それに耐えなければなりません、読み手も書き手も。先に述べた「原因を扱う」とは、考えを扱うということ。考えとは目に見えないものですから、抽象度が高いのは当たり前なのですが、どうも二十世紀以降この手のメタフィジカルな思考と現実の乖離がいっそう顕著にな り、考えは考え、食うことは食うこと、と別々にされて久しい。本書では、この壁をなんとか乗り越えようと理解の深化をねらいとして、この手の本では珍しく図による論の解説を試みています。

大学ジャーナル Vol.141 掲載

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