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教養と自由が未来をひらく

文:大学ジャーナル編集部

初出: 大学ジャーナル Vol.88(2010 年 6 月)

## 大学とは何か。なぜ大学へ行くのか。

真正面からこの問いに正確に答えることは簡単ではありません。今から40年ほど前の私たちは、高校時代、大学進学を前に大学生と同じようにこの問題について考え、大いに議論したものです。中には社会に対して、自分たちなりの主張を行動で示した仲間もいます。残念ながら答えは出ないままでした。あれから半世紀近くたった今、大学のあり方やその社会の中での位置付けはずいぶん変わりました。にもかかわらず、「大学とは何か」を問うことには今も大きな意味があります。むしろ、そのような根源的な問いを発しうる場所であることに、大学という存在の意義があるというべきでしょう。

高校時代は受験を意識しなければなりませんから、どうしても効率が優先されがちです。それが本当に《効率的》かどうかは別にして、ムダな時間はあまり過ごしたくないとみなさんが考えるのも無理はないと思います。しかしそこを通り抜けて足を踏み入れる大学は、そんな高校時代とはおそらく全く異質の場所であるに違いありません。私たちは立教大学を自由の学府と呼んでいます。高校と違ってすべてに亘って自由であると同時に、自分自身を自由にするための場所だからです。大学は、社会や企業がその時々に求める知識や技術を身につけるためだけの、あるいは資格を得るためだけの場ではありません。「人間とは何か」、「人は何のために生きるのか」、「真の友情とは何か」といったような、人間の存在にとって基本的な問いや、「宇宙の果てはどうなっているのか」、「星はどうして生まれたのか」、「生命の起源とは」などといった事物の根源についての問いを自分自身に投げかけ、時にはそれらについて友人や先生と議論を闘わす場でもあるのです。これらの問いは、単純に答えの出るものでもありませんし、問うこと自体が何かの役に立つかどうかもわかりません。しかしこれらのことについても、真剣に考える場が大学であり、それを通じて教養というものが育まれるとも言えるのです。

私の専門は、近代フランスの思想家ルソーを中心にした政治思想史ですが、18世紀のルソーの言う自由と、19世紀のイギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミルの言う自由とはずいぶん違います。そんなところからも《自由とは何か》についてたくさんの議論を始めることができます☆。これらの議論では結論が出なくてもかまいませんし、それが何かの役に立つかどうかを考える必要もありません。むしろ無駄なことだと言って、そういうことを一度も経験せずに人生を送ることこそ、私にはとても危険に思えるのです。

今の社会で必要とされるのとは少し違う訓練ができるのも大学です。私はラグビー部の部長を勤めてきましたが、大学の課外活動の一環である学生スポーツでは、利害を離れて純粋に勝つ喜びのために、全員が一致団結して苦しい練習を重ね、一緒に作戦を練ります。しかもそれに時間かけることも許されるのです。こんなことは社会へ出てからは到底できないことですし、それを通じてしか学べないことはたくさんあるのです。そもそも人はその時々に必要な知識や利益を得るためだけに生きているのではありません。食べたり飲んだりするのと同じように、純粋に考えるため、知るためにも生きています。

ですから、大学で行う基礎研究は、将来の役に立つというだけでなく、それ自体で人間が生きていることの一つの証にもなるのです。また、ある技術を身につけるにしても、大学ではそのことだけを目的にするのではなく、その技術の持つ社会的な意味や応用の仕方、役に立つ使い方を考えます。そこに、一人ひとりの人間の持っている可能性を広げていくという大学の大きな役割があるわけですし、言い方を変えれば、大学とはすぐには役に立たないようなことにでも真正面から取り組める、この世界で恐らく唯一の場なのです。

大学ジャーナル Vol.88 掲載

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