初出: 大学ジャーナル Vol.89(2010 年 8 月)
中国語を世界に普及し、中国文化を海外へ紹介するために、あらゆる国々に設立されつつある孔子学院。わが国でその最初の拠点となったのが立命館孔子学院(NPO法人 理事長川口清史 学校法人立命館総長、立命館大学学長)。中国語の将来性と、日本人が中国語を学ぶに当たって注意すべき点などを、院長の筧文生先生にお聞きしました。
## 教科書のなかった時代から、英語プラス中国語の時代へ
いま英語は、世界の公用語と呼ばれ、良し悪しは別にして、英語でなければ世界の人々がお互いにコミュニケーションを取れない状況になっています。一方で、2008年の北京オリンピックから2010年の上海万博へ、急速な経済発展を遂げつつある中国の存在感は、高まる一方です。沿岸部と内陸部の所得格差をどう解決するか、漢族と少数民族の融和をどう図っていくかなど、難しい問題をいろいろ抱えているとはいえ、中国がアメリカやロシアに勝るとも劣らぬ重要な地位を、国際社会で占めることになるのはそんなに遠い将来のことではないでしょう。「英語はできて当たり前、中国語が話せなければ、世界に通用しなくなる」という時代は、もうそこまで来ているのです。
私が初めて中国語を学んだのは、新中国が成立して4年目の1953年4月ですから、もう半世紀以上も昔のことです。当時はまともな教科書もなく、まして音声教材などはありませんでしたから、手探り状態で学ぶ時期がしばらく続きました。中国文学専攻が決まった3回生の4月、吉川幸次郎先生の研究室で、先生から2週間にわたって、毎朝、発音の特訓を受けたのも、忘れられない思い出です。それから半世紀、今では中国政府が、中国語教育を推進し、中国文化を世界に広めるための機関として、孔子学院を世界の国々に設置して、それぞれの言語に適した中国語教材を開発するとともに、中国語の検定(HSK)【コラム参照】まで行っているのですから、まさに隔世の感があります。
## 日本人と中国語
歴史的に中国文化の影響を深く受けて来たこと、同じ漢字を使ってきたこともあって、中国語は日本人にとってとても親しみやすい言語といえるでしょう。漢字を見たこともない国の人、とくに画数の多い漢字を見ると、それだけで拒絶反応を起こしてしまう欧米の人たちに比べれば、はるかにとっつきやすく、学ぶのにも有利であることは確かです。簡体字と繁体字※の違いはあっても、乗り越えられない壁ではありません。
しかし、このことが常に有利に働くとは限らないことも知っておく必要があります。なんだ、大したことないじゃないかと安易に考えると、いくつもの陥し穴が待ち受けているのです。たとえば、同じ漢字でも日本と中国とでは意味が異なることが多々あります。たとえば、「手紙」はトイレットペーパーのことですし、「老婆」は奥さんで、「娘」はお母さんを意味していることなど、どこかで聞かれたことがあるかもしれません。しかし、こういう例は一度聞いたら、すぐに覚えることができます。難しいのは意味が微妙にズレている場合なのです。
たとえば「重大」という熟語。日本語では「責任重大」とか「重大な過ちを犯す」というような表現に見られるように、そのもたらす結果が極めて深刻なニュアンスを持つことが多いのですが、中国語にはそうしたニュアンスは必ずしもあるとはいえないのです。ところが「重大」という言葉を含む中国語、たとえば「具有重大的现实意义」を日本語に翻訳する時、つい原文に引きずられて「重大な現実的意義をもっている」と訳してしまうのです。中国語の辞書でさえ、えてしてこうした誤りが見られます。こうした安易な翻訳は、専門家でもつい犯してしまいがちな過ちです。日本語にも中国語にも同じ漢字の熟語が使われている場合、ついその漢字に引きずられて、双方のニュアンスの違いに気づかぬまま訳してしまうことから起こるミスといえるでしょう。同じ漢字を使っているという有利さが、ここでは逆に不利に働くのです。
## 漢詩と朗唱
中国語の最大の特徴は、何といってもその独特のリズムにあります。そのため中国語学習では、音声面からのアプローチがとても重要になります。とりわけ漢詩は、訓読だけではなく、音読、それも朗唱してこそ中国語独特のニュアンスや押韻のもたらす効果を理解することができるのです。中国の大学には、たいてい朗唱クラブがあって、彼らの朗唱を聴いていると、漢詩は読むものではなく、耳で聴いて味わうものだということを実感させられます。
かつて韓国とベトナムの留学生が、杜甫の詩をそれぞれの国の言葉で朗唱するのをテレビで聴いたことがありましたが、韓国語にもベトナム語にも杜甫が生きた唐代の音が現在も生き残っていることに感動したのを覚えています。韓国もベトナムも、現在は漢字を使っていませんが、両国の言語には、今も唐代の漢字音が脈々と受け継がれていることを実感させられたからです。
日本では訓読という漢文直訳法が普及したために、漢文や漢詩のもつ音声的な美しさはあまり注目されてきませんでしたが、江戸時代の漢学者の中には、荻生徂徠のように音読の大切さを認識していた人もいました。彼は崎陽の学(長崎の学問)、つまり漢詩文を中国語で読むことを重視し、みずからも日本に来ていた中国人僧侶から中国語を学び、漢文・漢詩を訓読でなく中国語で読むことを主張したのです。当時としてはまさに画期的といえるでしょう。彼の作る漢詩文に和臭が少なく、中国の古典の注釈が他の漢学者に比べてとても正確なのはそのためです。
中国語の発音や抑揚を身につけるには、英語のリスニング同様、ネイティブの発音やリズムを何度も繰り返し聞くことが大切です。日本人にとってきわめて難しい発音も、いろいろあります。《n》と《ng》の区別などはその一つで、私は今でも苦手にしています。もっともこれは中国人でも出身地によっては難しいらしく、私の知人の張蘭(Zhang Lan)さんは、中学生の時、地方出身の先生に「蟑螂」(Zhang Lang)(ゴキブリ)と呼ばれて以後、同級生からゴキブリとからかわれ、親につけてもらった自分の名前が嫌いになったという話をしてくれたことがあります。
## 2000年以上の交流を思う
私は文化大革命が起こる直前に、上海外国語学院で2年間、中国の学生に日本語を教えていました。彼らにとって難しいのは、日本語の動詞の活用や助詞、そして敬語であることぐらいは、前もってわかってはいましたが、同じ漢字を日本語では呉音と漢音の二通りに読みわけることの難しさまでは気づいていませんでした。たとえば西という漢字、関西はカンサイ、西洋はセイヨウと読み分けるのはなぜか、そこにはどういう原則があるのかと私に問いただすのですが、「原則はない」という答えに彼らはとまどうばかりでした。この問題に答えるには、漢字の日本伝来の歴史から説き起こさなければなりませんし、時代とともに本家中国の漢字音が変化したことも関係しているわけです。ですからこの問題を考えるためには、日本と中国との2000年以上にわたる長い交流の歴史を学ぶ必要があるのです。奥が深ければ深いほど、研究分野は広がり、学ぶ楽しみも増えていきます。中国に関心のある方は、是非中国語を学んで、日本語との違いを考えてみてください。



